時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

‘世界は一つ’という認識の歴史的形成過程(その6):地球球体説は天動説と結びついている

 古代ギリシャピタゴラス学派の数学者・天文学者によって学術的・科学的に確かめられることとなった地球球体説the sphericity of the Earthは、太陽中心説Heliocentrism(地動説)と不可分の説でありますが、天動説geocentric modelとも結びつき、ローマ帝国の世界観としてその後ローマ帝国にも受け継がれたと推測することができます。

 

 「天動説geocentric model」と言いましたならば、地球は平面状であり、海の向こうには奈落の滝があるという説として一般的には認識される傾向にあるのですが、殊、古代ギリシャ・ローマ世界における天動説は、地球球体説the sphericity of the Earthから生じたものです。

 

 古代ギリシャの随一の哲学者・博識者であったアリストテレスAristotle (B.C. 384–B.C.322 )は、天動説の提唱者としても知られております。そのアリストテレスの天動説geocentric modelは、地球球体説the sphericity of the Earthから発展した説なのです。すなわち、惑星(球体)である地球を中心に、その周りを月、金星、水星、太陽などの恒星や惑星がまわる天球があるとする天動説を唱えたのです。

 

 同じく地球球体説the sphericity of the Earthから生じたピタゴラス学派のフィロラウス・クロトンPhilolaus of Croton (B.C. 470 –B.C. 385 )やヘクタスHicetas (B.C. 400 – B.C. 335 BC) の太陽中心説Heliocentrismは、今日、学術的・科学的に正しいことは明らかなのですが、むしろアリストテレスの唱えた天動説geocentric modelが、人類史に大きな影響を及ぼすこととなったと言うことができるかもしれません。

 

 その理由は、アリストテレスアレキサンダー大王の学問の師であったこと、そして、ローマ帝国が、アリストテレスの天動説geocentric modelを信じたことにあります。

 

 アリストテレスマケドニアの出身であり、アテネで学びますが、マケドニア王フィリップ(B.C.382 – 21 October 336 BC)の招聘で、当時13歳であったアレキサンダーの学問の師となります。アレキサンダー大王の大遠征と地球球体説the sphericity of the Earthとの関係は、「アレキサンダー大王は地動説を信じた?」とする副題で2022年10月20日付本ブログで扱い、「ギリシャの学術文化の強い影響をも受けていたアレキサンダー大王は、“世界は一つ”であって球体であるという確信から、世界の果てまで遠征し、世界を政治的・経済的に統一支配するという計画を立てたのではないか」と述べましたが、アレキサンダー大王の大遠征の思想的背景には、アリストテレスの天動説があったのではないか、と推測することができます。

 

 そして、仮に、地球を中心として天界があるのであれば、地球を支配することは、すべての空間spaceをも支配すること、すなわち、‘存在’のすべてを支配することを意味していたとしましたら、若きアレキサンダーの野望は、果てしないものであったのかもしれません。

‘世界は一つ’という認識の歴史的形成過程(その5):ピタゴラスの‘世界は一つ’思想

 アレキサンダー大王は、ピタゴラス学派の唱える地動説Heliocentrismを信じ、地政学的思考geo-political thinkingを以って世界の面的な支配、すなわち領域的支配を目指して大遠征に出発したと推測できることは、昨日述べました。今日でも、「世界帝国」という名称が、アレキサンダー大王の大遠征に対して初めて用いられる歴史用語であることは、この点に起因しているのかもしれません。

 

 ところで、地球を中心として天空側が動いているという天動説geocentrismに対して、逆に地球側が動いているとする説は、「地動説」と称されておりますが、この用語は、英語の「Heliocentrism」の訳語です。「Helio」が太陽を意味することに示されますように、「Heliocentrism」は、日本語に訳しますと正しくは「太陽中心説」となりますので、天動説の対立語として、地球が公転・自転していることによって生じる一日や四季折々の天空の変化を表現する用語として、狭義においては「太陽中心説Heliocentrism」でもよいのでしょう。

 

 しかしながら、宇宙空間に浮かぶ球体(惑星)であるとする認識、すなわち、地球球体説the sphericity of the Earthが、太陽中心説の前提条件、もしくは、不可分の説としてあったことには、注目すべきです。

 

 数学的に、太陽中心説Heliocentrismが証明できるから、地球球体説the sphericity of the Earthも証明できたのか、その逆で、地球球体説the sphericity of the Earthが証明できるから太陽中心説Heliocentrismが証明できたのか、「卵が先か鶏が先か」の問題となりますが、地球球体説the sphericity of the Earthこそ、ピタゴラスの定義と並んでピタゴラスPythagoras of Samos(c. 570 – c. 495 BC)が発見した重要な数学的・科学的発見の一つなのです。

 

 そこで、ピタゴラスに注目してみますと、ピタゴラスフェニキア人との接点が見えてまいります。地球球体説the sphericity of the Earthは、海の民、交易の民であるフェニキア人が発見し、紀元前4世紀にそれをピタゴラス学派が学術的に証明した可能性が高いことは、10月19日付本ブログで述べました。ピタゴラスの生まれたサモス島は、エーゲ海の東部に位置し、古代において交易の一大中心地でした。金宝石細工師であったピタゴラスの父は、フェニキア人の都市国家ティルスの出身であるとする説があることに示唆されますように、ピタゴラスフェニキア人と近い関係にあったと考えられます。あるいはフェニキア人であったのかもしれません(古代にあってギリシャ人とフェニキア人の区別は曖昧。金宝石細工師はフェニキア人やユダヤ人に多い)。

 

 ピタゴラスは、エジプトのテーベで幾何学と輪廻説Metempsychosisを学んだことは確かなようであり、古代の伝記作家によりますと、フェニキア人、ケルト人、イベリア人からも、天文学ゾロアスター教、預言などについて多くを学んだとされています。

 

 そして、ピタゴラスとその弟子たちは、「ピタゴラス学派」と称されているアカデミックなグループ、すなわち、秘密結社のような学派形成するわけです。学派内部の知識を門外不出としたこのグループは、「万物は数字によって説明されえる」とし、神羅万象を純粋に学術的・数学的に探究してゆく側面と、輪廻説Metempsychosis、善悪二元論、預言prophecy、数霊術numerologyといった人類の謎や魂の謎といった哲学的・神秘的な問題を追及してゆく側面をあわせもった知性的なインテリ集団であったようです。

 

 今日におきましても、ピタゴラスの名を知らぬ者はいないように、‘世界は一つ’とうい認識を持つピタゴラス学派の知的・神秘活動は、人類史に影響を与え続けたはずであり、天動説下にあっても、その思想は脈々を受け継がれ、アレキサンダー大王以降の人類史上においても、しばしばその姿を現したのではないでしょうか。そして、『聖書』「黙示録The Revelation」の問題とも密接に繋がっているのではないでしょうか。

 

‘世界は一つ’という認識の歴史的形成過程(その4):アレキサンダー大王は地動説を信じた?

 昨日、本ブログにて「古代ギリシャ人は、ペロポネソス半島エーゲ海に浮かぶ諸島、アナトリアなどに小さな都市国家ポリスを建てて分散して居住しており、たとえ植民国家を進出地につくろうとも、面的な繋がりを持つ全領域的支配への関心は薄かったと考えることができる」と述べました。しかしながら、「アレキサンダー大王がいるではないか」という反論もあるではないでしょうか。

 

 そこで、本日は、アレキサンダー大王Alexander the Great(B.C.356B.C.323)の歴史的・文化的背景について考えてみましょう。

 

 紀元前3世紀に登場したギリシャアレキサンダー大王と言いましたならば、「世界帝国」とも称することのできるような大帝国の建設者として、歴史上にその名を留めていると言えます。そして、アレキサンダー大王は、ギリシャ文明・世界を代表しているかのように認識されがちですが、実はそうではありません。

 

 アレキサンダー大王は、当初はギリシャ世界を構成していたマケドニアという一ヵ国の国王に過ぎませんでした。ペロポネソス半島の付け根に位置し、トラキアと隣接するマケドニアが、そもそも他の諸ポリスとは聊か異なる文化と気質を有していたことは注目されます。

 

 すなわち、ギリシャの他の諸ポリスが、山がちなギリシャ半島の入り江の小さな港湾やエーゲ海の島々などに建設されたこともあって、海洋的であったことと比較すると、ギリシャ世界と他の世界の境界線上にあったマケドニアは、ヨーロッパ・ユーラシア大陸最東南部に建設されたこともあって、その気質は、“大陸的”であったと言えます。さらに、他の諸ポリスが、こうした地理的条件もあっていわば“小規模精鋭”で、“民主的”であったことと比較すると、一時期ペルシャ帝国に支配されていたこともあったマケドニアは、非民主的であって専制的な政治形態を持っていたようです。

 

 このような地理的・歴史的背景は、マケドニア人が、陸続きの面的支配に関心があった可能性を示しています。ペルシャ帝国に支配されたことで、逆に面的な支配のノウハウを手に入れたマケドニア人が、ギリシャ世界では常識であった地動説を以って、世界支配を計画したことは、ありえる推測の範囲に入るのです。

 

 ピタゴラス学派のフィロラウス・クロトンPhilolaus of Croton (B.C. 470 –B.C. 385 )、ヘクタスHicetas (B.C. 400 – B.C. 335 BC) が、学術的に地動説Heliocentrismの正しさを論証し始めた時期は、ちょうどアレキサンダー大王が登場した時期と重なります。あるいは、ギリシャ世界の辺境にありながらも、ギリシャの学術文化の強い影響をも受けていたアレキサンダー大王は、“世界は一つ”であって球体であるという確信から、世界の果てまで遠征し、世界を政治的・経済的に統一支配するという計画を立てたのではないか、と考えることができるのです。このように考えますと、歴史上、地政学的思考geo-political thinkingを初めて持ち、実行に移したのは、アレキサンダー大王であったのかもしれません。

 

 コペルニクスCopernicus(1473-1543)が地動説を再び学術的に論証した時期は、まさに第二次大航海時代と重なり、そしてアメリカ大陸や極東の日本にまで布教活動を行ったイエズス会士達は、地動説の正しさを確信していたそうです。

‘世界は一つ’という認識の歴史的形成過程(その3):フェニキア人の世界進出は世界支配思想とは結びつかなかった

 地政学は、地球の球面全体(地表、スフイア、sphere)における自らの勢力範囲の如何を考えるための学問分野であることから、「古代ギリシャピタゴラス学派による地動説Heliocentrism(地球球体説)の学術的発見、そして、フェニキア人の海洋進出は、地政学的思考geo-political thinkingにもとづく世界支配と直ちに結びつくものとなったのか」、と言えば、そうではないようです。すなわち、ギリシャ人もフェニキア人も、地球が、‘一つの球体’、‘一つの世界’であるという認識を持っていたからといって、すぐには世界支配という計画を考え出さなかったようです。

 

 確かにフェニキア人は、交易・商業活動に従事した人々であり、地動説による海洋進出は、たとえ世界一周はできなくとも、経済的利益と深く結びついていたはずです(フェニキア人がアメリカ大陸に到達していた可能性はありますが、測量技術の未発達とマゼラン海峡の複雑性を考えると、船を陸揚げしてパナマ海峡を渡るか、もしくはパナマ海峡で造船しなければ、当時、世界一周をすることは不可能であったのでは)。世界各地の貴金属、貴石、香料、毛皮、象牙、工芸品などの特産品をフェニキアの大型船の船底に積み込んで帰港すれば、莫大な利益があったはずなのですから。フェニキア人たちは、さらに珍しい特産品を求めて、‘見知らぬ土地’へ向かって帆を上げたことでしょう。

 

 しかしながら、フェニキア人たちは、集住して一つの国家をつくらず、中近東にティルスTyreやシドンSidon、北アフリカカルタゴCartageなどの国々(港湾都市国家)を建て、分散して居住したことに示唆されますように、海洋民族のフェニキア人たちにとりましては、陸的・領域的な支配は苦手であったようです。

 

 すなわち、本国(港湾都市国家port city-state)と進出地との関係は、本国による点的なネットワーク支配であったと言えます。フェニキア人たちは、進出地の港、およびその周辺部にたとえその居住地をつくろうとも、それは、いわば、“支店”の機能を持つものであり、諸寄港地のすべての港を含む全領域を支配するという発想には、至らなかったと推測することができるのです。語弊はあるものの、たとえてみれば、日本の鎖国時代にオランダが、出島のみをその居住地としながら、幕府とのほぼ独占貿易関係の成立によって、莫大な利益をオランダ本国にもたらしたことと似ていることも言えましょう。

 

 古代ギリシャ人も似たり寄ったりであり、古代ギリシャ人は、ペロポネソス半島エーゲ海に浮かぶ諸島、アナトリアなどに小さな都市国家ポリスを建てて分散して居住しており、たとえ植民国家を進出地につくろうとも、面的な繋がりを持つ全領域的支配への関心は薄かったと考えることができるのです。

 

 では、古代ギリシャの地動説と地政学的思考geo-political thinkingにもとづく世界支配という思想とが、結びついたのは何時のことであったのでしょうか。

 

 それは、紀元前3世紀におけるアレキサンダー大王Alexander the Great(B.C.356B.C.323)の大遠征であったのではないか、と推測することができます。アレキサンダー大王の登場と世界支配思想の登場との関係につきましては、明日、述べてまいります。

‘世界は一つ’という認識の歴史的形成過程(その2):紀元前に第一次大航海時代はあった?

 地球は、球体であり太陽のまわりを回っている、すなわち公転しているという地動説Heliocentrismは、遅くとも紀元前4世紀には、古代ギリシャにおいて学術的に発見されており、ギリシャ・ローマ時代には、いわば「天文学上の常識」となっていたことは、昨日述べました。

 

 地動説は、ギリシャ半島やアナトリアなどの地中海に面した地域に都市国家ポリスを形成し、地中海東部沿岸域をおもな活動の拠点としていたギリシャ人にとりましては、実用性においてさほど大きな意味は持たなかったかもしれません。アカデミックな観念的世界のお話ということになるのでしょう。

 

 しかしながら、地動説はギリシャ人と近い関係にあったフェニキア人Phoeniciansにとりましては、大きな意味を持ったかもしれません。それは、フェニキア人は、古代にあって唯一遠洋航海が可能な船を造ることのできる技術を持っていたからです。

 

 丸い大きな船底によって安定性の優れた船は、波の荒い大洋に出ても航海することができます。紀元前の世界にあって、このような船を造ることができたのは、唯一フェニキア人なのです。フェニキア人が、大木のレバノン杉の生い茂る中近東地域をおもな活動の拠点とした理由は、大型木造船を建造できる木材を入手するためであった可能性もあり、また、カルタゴに代表されるような大きなドックを建造する技術もこの点とかかわっているのでしょう。

 

 こうした造船技術によって大洋に出て行くことができるようになったフェニキア人なのですが、そうやすやすとは、大海に出て行くことはできなかったはずです。大海原の先に何があるのかが、わからなかったはずであるからです。中世におきまして、世界は平面であると信じられていましたように、また、海の向こうには滝があって奈落に落ちることとなるとも信じられていましたように、海の向こうの世界に対する何らかの確信が無ければ、海(水平線)に向かって漕ぎ出すことには抵抗があったはずです。しかしながら、仮に、フェニキア人が地動説を信じていたとしたどうでしょう。地球は球体であるから、海の向こうにも陸地があって、また、出発点に戻ってくることもできるはずであると考えたはずです。

 

 このように考えますと、船上から眺めますと、水平線がどこまでも続いてゆくことなどは、フェニキア人にとりましては至極当然のこととして認識されたはずです。かくて、フェニキア人たちは、丸底の大型船乗り込み、遠洋を渡り、ヨーロッパ、北アフリカ、インド、アジアなどの見知らぬ土地へと向かっていったのです(フェニキア人たちは、あらゆる‘見知らぬ土地’へ行ったようであり、歴史の父ヘロドトスHerodotusの『歴史The Histories』によると、フェニキア人たちは、その‘見知らぬ土地’の人々が人食い人種であることを恐れたそうです)。

 

 15・16世紀、コペルニクスが地動説を唱えた時代は、まさに歴史区分において「大航海時代the age of European voyages of discovery」と称されている時代です。マゼランFerdinand Magellan(1480?-1521)による世界周航計画によって、地動説の正しさは証明されました。しかしながら、古代ギリシャ・ローマ世界の紀元前にも大航海時代はあったのです。すなわち、15・16世紀は、第二次大航海時代であり、第一次大航海時代は、古代ギリシャ天文学・数学において地動説が信じられていた時代であったと言えるのではないでしょうか(地動説、もしくは、地球が球体であるとする説は、遅くとも紀元前12世紀頃からフェニキア人の間で既に信じられていた可能性があり、古代ギリシャの数学者たちが、それを学術的に証明したのかもしれません)。

‘世界は一つ’という認識の問題:‘世界は一つ’という認識の歴史的形成過程(その1)

 地政学的思考geo-political thinkingは、地球規模で物事を考える思考ですので、この思考は、‘世界を一つ’という認識を基盤としています。このことは、‘世界は一つ’という意識の重要性を示しているのですが、それでは、人類史上、‘世界は一つ’とする認識・意識は、どのようにして形成されてきたのでしょうか。数回にわけて、この疑問につきまして本ブログにて述べてまいります。

 

 先史時代の人類は、小集団に分かれて世界各地に居住しており、「自分たちが住む世界が、無限大であるのか、有限大であるのか」を認識することは難しかったと考えることができます。徒歩でたどり着ける範囲は限定的であったでしょうし、自分たちの住む範囲以外の空間に対してどれほどの関心を持っていたのかも定かではありません。また、当然のこととして、当時の人々は、地球が球体であることに気づくはずもありません。

 

 確認し得る範囲で、‘世界’の形状に対して、初めて関心を示したのは古代ギリシャ人です。ピタゴラス学派のフィロラウス・クロトンPhilolaus of Croton (c. 470 – 385 BC)とヘクタスHicetas (c. 400 – c. 335 BC) は、「地球は球面体であり、‘神秘的な’中心となる炎の回りを回っており、この炎が宇宙を規律している」と唱えました。そして、この説の影響を受けた天文学者であって数学者であるアリスタルコスAristarchus of Samos(c. 310 – c. 230 BC)が、「地球は太陽のまわりを公転している」とする所謂「地動説Heliocentrism」を提唱し、ギリシャ・ローマ時代の天文学において広く認められるところとなるのです。

 

 歴史の教科書では、地動説はコペルニクスCopernnicus(1473-1543)によって初めて唱えられたと記述されておりますが、本当は、その千数百年も前に既に唱えられていたのです。

国際秘密結社が地政学的思考geo-political thinkingを持っていたら?

 地政学的思考geo-political thinkingが、共産主義者に加えてイルミナティ―などの国際秘密結社の思考であった場合には、世界各地に紛争の絶えない不安定な世界となる可能性があります。

 

 その理由は、地政学が、地球の球面全体(地表、スフイア、sphere)における自らの勢力範囲の如何を考えるための学問分野であるからです。歴政学historo-politicsにもとづいて成立している既存の国境線や各国政府の施政の及ぶ範囲の重要性を軽視し、「こうあるべきだ」とする自らの‘未来’のみを追求してゆく思考形態が、地政学的思考geo-political thinkingですので、仮に、各国の政府や主要マスメディア内にそのエージェンシーを張り巡らしている国際秘密結社が、地政学的思考geo-political thinkingを採用していた場合、当該結社には、自らの‘未来’のために既存の国境性や施政の及ぶ範囲を造りかえようというインセンティブが働くはずであるからです。

 

 このため、国境線の変更を目的として、国際秘密結社のエージェンシーによって様々な謀略や陰謀conspiracyが試みられ、紛争の勃発や分離独立運動の激化が懸念されることとなるのです。ウクライナ紛争も例外ではないかもしれません。ウクライナとロシアの両国を操る国際秘密結社の存在は、視野に入れるべきでしょう。

 

 また、地政学的思考geo-political thinkingを持つ国際秘密結社は、いわゆる‘国家乗っ取り’も常とう手段としている可能性も指摘することができます。多くの国々の政府が積極的に行っている移民政策がその典型であり、移民の増加は歴政学的思考historo-political thinkingを持つ人々の人口比を下げるのに利用されていると言えます。特に危険な事例は、中国共産党政府系資本企業が、その従業員に中国から移民を採用した場合であり、将来的に急速に中国化が進むこととなります。

 

 述べてまいりましたように、地政学的思考geo-political thinkingが、共産主義者に加えてイルミナティ―などの国際秘密結社の思考であった場合、世界のさらなる不安定化は、懸念事項であると言えるでしょう。物理・数学者であったアイザック・ニュートンは、『聖書』「黙示録The Revelation」を研究し、フランク王国シャルルマーニュCharles the Greatが西ローマ帝国の皇帝として戴冠した西暦800年から西暦2060(2061)年までの1260年間、サタンによる政治的・経済的支配が続くと予言(預言?)いたしましたが、西暦2060(2061)年まであとわずか凡そ40年という現在は、まさにサタン支配の最終局面に入っているのかもしれません(サタン支配の最終局面は、サタン滅亡の序曲の始まりでもある)。