時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

竹島問題も常設仲裁裁判に付しては?


 竹島をめぐっては、韓国側は、自らが歴史的に主権権を及ぼしていたことを立証する証拠がないために、日本国による”放棄”、並びに、1900年の勅令41号に見える”石島”に根拠を求めようとしています。しかしながら、この主張も、韓国が、竹島に対して主権を及ぼしてきた歴史的事実がない以上、手前勝手な解釈か、牽強付会に過ぎません。

 第一回目の”放棄”とされるのが、江戸期の元禄時代における”竹島鬱陵島)一件”をめぐる日朝交渉の結果です(幕府は、竹島・松島での事業を許1618年から許可…)。この交渉において明白なことは、日朝間の交渉対象は、竹島、即ち、鬱陵島一島に限定されていることです(なお”天保竹島渡航禁止令”でも、竹島一島の名のみ記載…)。しかも、江戸幕府は、李氏朝鮮に対して鬱陵島の領有権を正式に認めたわけではなく、渡航禁止の対象にしたに過ぎません。また、韓国側は、現在の竹島鬱陵島の付属島と主張していますが、現在の竹島は、日本人が鬱陵島渡航する際に利用されたのであり、その逆ではありません。仮に、李氏朝鮮が、自国の領土とする認識があるならば、朝鮮名の名称があったはずですし、交渉においても言及したはずです(”独島”という名称が登場するのは、日本人によるあしか漁事業が始まる20世紀に至ってから…)。

 また、第二回目の”放棄”とされる1877年の明治政府の太政官指令が作成されたのは、近代測量技術が導入される以前にあり、英仏による測量結果の違いから、英仏地理的位置や島の数の認識(ダジュレー島、アルゴノート島、リャンクール島)並びに、日本名でも名称(竹島、松島、磯竹島…)に混乱があった時期でもあります。しかしながら、1883年において明治政府が出した鬱陵島への渡航禁止令では、緯度と経度を明記し、鬱陵島竹島=松島、つまり、元禄合意の対象は鬱陵島一島との認識を明確にしております。

 また、日露戦争との関連が指摘されおりますが、前年、1904年2月23日に締結された日韓議定書により、日本国は、韓国の領土保全を約しており、日露戦争が、朝鮮半島をロシアの南下政策から護ることをも意味した以上、竹島の如何に拘わらず、軍事を目的とした朝鮮半島近海の利用において協力を得られる立場にありました。

 石島=独島説についても、島根県の調査団が訪れた際、鬱陵郡の郡守は、竹島の正確な位置を知らず、独島という名もここで初めて使っています。仮に勅令41号の石島が独島であったならば、即、石島と表現するはずでしょうし、韓国政府も、調査するまでもなく日本側に抗議したはずです。

 当時の韓国マスコミは、批判的に報道したそうですが、1906年7月13日付の皇城新聞では、「鬱陵島配置の顛末」とする記事を掲載し、最後は、「…その郡(鬱陵郡)の所管島は竹島、石島で、東西が六十里で南北が四十里なので、合わせて二百余里という。」という文章で締めくくっているそうです。管轄区域を明記したことで(竹島は管轄外…)、竹島についての韓国側の疑義が晴れたことを、暗に示したとも言えます(本ブログ2013年11月6日記事より転載)。

 竹島問題については、ICJへの単独提訴という方法もありますが、常設仲裁裁判所の手続きであれば、韓国が応訴しなくても開廷される可能性があります。この問題は、司法解決こそ、最も適していると思うのです。

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