時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

天安門事件が問う「国家は誰のものであるのか」

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。昨日、NHKのドキュメンタリーにて天安門事件について扱っておりました。その真相とは、多党制への移行による民主化と経済開放を主張する趙紫陽路線と、共産党一党独裁にあくまでも固執する鄧小平・胡錦濤路線との対立にあり、結果的に、鄧小平が、民主化を求めて天安門に集まった人々を武力制圧した、というものでありました。
 
ドキュメンタリーは、「国家は誰のものであるのか」という問題を提起していた気がいたします。それは、天安門集まった人々の抗議の声が、当初は、共産党政府に対してその内部改革による民主化を促す、もしくは後押しする穏便な要求から、共産党政権打倒へと変化した理由が、穏便な民主化運動が、共産党政権によって、「動乱」と認定されたことにあるからです。
 
当時、天安門に集まった人々は、国家と国民のために民主化を求めました。多党制を導入することで、政治的自由と経済的自由が保障された近代的民主主義・自由主義国となることこそが、国家と国民のためであるという愛国心に従って行動していたと言えるでしょう。ところが、中国共産党政権の幹部の意識はこれとは異なっており、国家と共産党は不可分の関係にあり、中国共産党は国家そのものであると捉えていたようです。このため、中国共産党を批判する愛国的な行為は、共産党政権によって国家反逆罪、すなわち、動乱であると認定されてしまったのです。
 
本年3月24日付け本ブログにて「世界のオーナーになろうとしているイルミナティー」と題しまして、民主主義とは、国民主権を意味することについて扱いました。国民主権は、どのような制度によって担保されるのかと言いますと、多党制・普通選挙制度による代議員制であると言えます。すなわち、国民が望む政策を、国民の代表として施行する代議員を選挙によって選ぶ権利、並びに、個人、または、政党の党員として代議員に立候補し、よりよき政策を国民に提案するとともに、当選した際には国民が望む政策を施行する権利が、国民に与えられている制度が代議員制度であるからです。
 


 『日本国憲法』でも、国民主権が明記されておりますように、このような民主主義の理念は、人類普遍の政治的価値として多くの国々で認められ、普通選挙・代議員制度として確立されております。すなわち、「国家とは誰のものであるのか」という問いに対して、「国民のものである」という答えを明確に制度化したのが、民主主義制度であるということになるのです。1989年6月に天安門に集まった人々は、人類普遍の政治的価値として、当然の要求を政府に対しておこなったに過ぎなかったにもかかわらず、国家反逆罪の汚名を着せられるとともに、多くの人々が虐殺されてしまったことは、いかに中国共産党政権の体質が、非理性的で、狂気に満ちた体制であるのかを示していると言えるでしょう。

 


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(続く)