時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:裁判の起源

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。国際法において誣告罪が必要である理由につきまして、11月13日付本ブログ、ならびに、11月17日付本ブログにて、2つの点を指摘させていただきました。誣告罪は、裁判問題と深くかかわりますので、今回は、裁判の起源につきまして、進化論から考えてみることにいたします。
 
そもそも裁判とは、政府の司法機関などの公権力が、法律などに則り、悪事を行った人を罰するために開かれる善悪の判定制度のことである、と言うことができます。したがいまして、裁判におきましては、‘悪事とは何か’、という‘善悪の判断’が、まずもって、その土台となっていることになるでしょう。
 
そこで、‘善悪の判断’の問題に注目いたしますと、キリスト教の経典である『聖書』は、類人猿から人類への進化におきまして、2段階の進化があったと捉えております。
 
第一段階は、唯一絶対神によるアダムとイヴの創造となり、この人類創造によって、人類の容貌は、類人猿から、人類へと進化した、と考えることができます。しかしながら、第一段階では、不十分であったようなのです。
 

本ブログにて、以前に指摘いたしましたように、アダムとイヴが、「善悪の判断を知る木the tree of knowledge of good and evil」の果実を食したことにより、人類は、善悪の判断ができるようになります。すると、唯一絶対神は、「人類は、我々の一員として、善悪を知るようになったAnd the Load said, Behold, the man is become as one of us, to know goodand evil」という言葉を発します。唯一絶対神は、メンタリティーとして、人類は、唯一絶対神に近づいた、と述べているのです。

 

第一段階におきまして、人類の容貌が、神に近づくという進化が起こり、第二段階におきまして、人類のメンタリティーが神に近くという進化が起こったことになります。このことが、この地球上には、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」が併存していることを説明していることになります。第二段階を経ることで、善悪の判断ができる「神様志向型人類god(goddess)-minded human」となった人類と、人類の容貌を持ちながらも、第一段階で進化が止まった人々が、地球上には存在しており、善悪を判断することのできない人々が、「野獣型人類 beast human」なのです。

 

述べてまいりましたことから、‘善悪の判断’を、その基本に据えている裁判制度は、第二段階を経て、善悪の判断することができるようになった「神様志向型人類god(goddess)-minded human」の間においてのみ、行うことのできる制度である、と言うことができます。しかしながら、地球上には、「神様志向型人類god(goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」が併存しているわけですので、裁判制度は、当然、数々の問題を抱えていることになります。

 

次回では、国際司法裁判も含めまして、「神様志向型人類god(goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」の併存によって生じている裁判制度の問題につきまして、扱ってゆくことといたします。

 
(続く)