時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

ローマ人を恐怖に陥れたクレオパトラの野望

 大祭司長カヤファは、ユダヤの法律には刑罰が無かったため、ローマ帝国の刑法を用いて、イエスを亡き者にしようという計画を立てたことは9月30日付ブログで述べました。ヘロデ王朝側のこの計画には、難点がありました。それは、ローマ総督府が、イエス側に味方する可能性が高いということでした。

 

 ヘロデ王朝は、クレオパトラの傀儡政権でしたので、ローマ総督府は、この事件をヘロデ王朝側によってイエスに対して仕組まれた冤罪事件とし、ヘロデ王朝側を有罪とし、さらには、イエスを「ユダヤの王」としてユダヤ人の国を開かせ、ヘロデ王朝側を潰すことは大いにあり得たのです。

 

 ローマ国のクレオパトラに対する嫌悪は、ローマ元老院がクレオパトラのみに対して宣戦布告したことによく表れています。では、なぜ、そこまでクレオパトラはローマ人から嫌われたのでしょうか。

 

 その理由は、クレオパトラが、ローマ人との間にもうけたカエサリオンを利用して、ローマ征服を目論んだことにあります。カエサリオンは、実際にはポンペイウスとの間に生まれた子であったようですが、当時、独裁官(ディクタトール)としてローマの国権を掌握しつつあったカエサルの子であると主張して、その子を「カエサリオン」と命名しておりました。カエサルには、嫡出の男子がおりませんでしたので、仮に、将来、カエサリオンがカエサルの地位を継いだ場合、ローマ国は、すべからくクレオパトラとカエサリオン親子の支配下に入ってしまう恐れがあったのです。クレオパトラは、ガリヤ、イベリア半島、西アジア、北西アフリカ大陸にまで広がっていたローマ領をも加えたエジプト帝国を築こうとしていたと言えましょう。クレオパトラの野心に気付いたローマ国民は、皆、青ざめてしまったわけです。

 

 クレオパトラをめぐりましては、「ローマの権力者に媚び、取り入ることで、エジプトの独立を守ろうとした」といった肯定的評価が聞かれますが、実際には、防衛の域を超えて、「ローマの権力者に媚び、取り入ることで、ローマを逆征服しようとした」ということになるのです。古代ローマ人たちが、野心家クレオパトラを‘敵’と認識したのは無理からぬことでした。

 

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窃盗をめぐるイエスの時代の聖俗二重の罪問題

 お話は、恩赦問題の前に戻りますが、過ぎ越しの祭りの恩赦におけるイエスとバラバの2者択一の問題は、そもそも、なぜ、大祭司長宅にイエスと盗賊バラバの2人のみが拘留されていたのか、という疑問を提起することとなります。イエスは、他の二人の無名の盗賊と一緒の3人で十字架刑に処せられておりますので、イエスと盗賊バラバの2人のみが、宗教的権力者である大祭司長宅にいたことは、おかしな事なのです。言い換えますと、通常、犯罪人は皆、ローマ総督の監獄、もしくは、ヘロデ王朝の監獄に収監されるはずであることから、なぜ、二人のみが、大祭司長宅に連行されたのか、この点からして奇妙なのです。

 

 ここで、考えなければならない点は、当時の中近東地域において、窃盗罪は、俗世の権力体であるローマ総督府とヘロデ王朝の刑法によって裁かれる罪(crime)である一方で、「モーゼの十戒」における「汝、盗むなかれ」の違反として、宗教的にも裁かれる罪(sin)であったことです。この窃盗罪をめぐる二重の裁判権を悪用して、大祭司長カヤファは、イエスとバラバのみを宗教的違反者として、群衆をして二人を捕えさせ、大祭司長宅にて二人を入れ替えるという悪だくみを考え付いたと推測することができます。

 

 宗教的権限には連行や裁判の権限はあっても実定法を欠くため、死刑を含む具体的な刑罰を科すことはできませんでした(刑罰は、神による不運や不幸)。それでは、二人を入れ替えても意味がないことになりますので、大祭司長カヤファは、二人をローマ提督ピラトのもとに連れて行き、刑罰を持つローマの刑法を適用させるように誘導したようです。この辺の状況は、『ヨハネによる福音書』が伝えているかもしれません。

 

 ― そこで、ピラトは彼ら(大祭司長当局)に言った。「彼を連れゆき、あなた方の法律によって、裁きなさい」と。しかるに、ユダヤ人は彼に言った。「私共には、人を死刑にする法律はありません。イエスの供述は、十分に死刑に値しますがね(第18章31-32節)」―

 

 すなわち、大祭司長カヤファは、窃盗罪をめぐる聖俗二重の罪(crime & sin)を利用して、捕縛には聖の権力、刑罰には俗の権力を用いて、イエスを亡き者にしようとしたということになるでしょう。

 

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イエスとバラバのどちらを選ぶか問題の真相:闇と光

 さて、大祭司長がイエスと盗賊バラバをすり替えたことから、イエスは、ローマ総督ピラトに対して反論と説得を試みる機会を失ってしまうわけですが、次なる大祭司長の悪だくみは、群衆が選ぶ過ぎ越しの祭りの恩赦の対象を盗賊バラバにしてしまうというものであったようです。

 

 大祭司長の下僕達も含めて当時の人々は、エルサレムの神殿などで、説教をするイエスやその側にあったペテロの姿を覚えていたはずです。大祭司長宅では、松明や蝋燭などの明かりが、煌々と燈っていたがゆえに、イエスの様子を見に来た人物がイエスの弟子のペテロであると確認できたのでしょう。

 

 ところが、そのペテロが、「自分はイエスの仲間ではない」と大祭司長の下僕達の計略に騙されて否定しましたので、大祭司長宅で拘留されている人物は、イエスではない別の人物ということになります。では、「ペテロが知らないこの拘留者は誰であるのか」、ということになりますと、それは、消去法で盗賊バラバということになってしまいます。その理由は、もう一人、大祭司長宅には拘留されていた人物があり、それが、バラバという盗賊の頭であったからです。大祭司長の下僕達の迫真の演技によって、ペテロは、誘導されてしまい、大祭司長、並びに、その下僕達は、恩赦の対象を群衆に選ばせるにあたり、イエスを指して、「こちらが盗賊バラバである」、バラバを指して、「こちらがイエスである」と紹介し、誤認させたかったのでしょう。

 

 大祭司長は、群衆は、当然、‘イエス’、すなわち、実は盗賊バラバを恩赦の対象に選ぶものと予測していたはずです。ところが、鶏が3度鳴き、夜が明けましたので、群衆の目には、イエスとされている人物が盗賊バラバであり、盗賊バラバとされている人物がイエスであり、取り換えは一目瞭然です。そこで、ローマ総督ピラトが、恩赦としてバラバを指して「ユダヤの王を助けましょうか?」と群衆に尋ねますと、イエスを助けたい群衆は、「この男ではなく、バラバ(イエス)を」と答えるわけです。では、イエスは、助かったのでしょうか。

 

 この取り換え問題は、行き過ぎた個人情報保護法の問題を想起させるかもしれません。人の顔などの容姿などの情報は、きちんと認識されておりませんと、巧妙な悪だくみに利用されてしまうということを教えているのではないでしょうか。

 

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倉西研究所のメンバー紹介

 本日は、ネット上で倉西研究所の副所長である倉西正武(数学者)について作成されたyoutubeを発見しましたので、ご紹介いたします。倉西茂副所長の兄にして、倉西裕子研究員と雅子研究員の伯父に当たります。

 

*AIで作成されたらしく、テロップの誤変換があります。

*本ブログの「倉西研究所について」のメンバー紹介にも掲載しました。

 

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アクチウムの戦いはローマ元老院の作戦勝ち

 紀元前1世紀は、キケロに代表される天界思想に通じる理性・倫理重視の思想とエピキュロス派に通じる野蛮・エゴイズム思想が衝突した時代でもありました。野蛮・エゴイズム思想は、ローマの野心的政治家たちをも魅了し、両思想の対立は、ローマに深刻な内戦をもたらしました。地中海世界や西アジアの人々は、こうした内戦に巻き込まれ、元老院や王侯貴族から庶民にいたるまで、明日の命をも知れない辛苦を味わうこととなったと言えましょう。

 

 こうした状況に、ひとまずは、終止符を打ったのがアクチウムの戦いです。その勝敗は、世界史の教科書が記すようにアクチウムに終結した両大軍の戦闘によって決したのではなく、アントニウス・クレオパトラ側の内部崩壊にありました。この時、多くのローマの軍人たちが、アントニウスに味方してエジプトに渡っていたのですが、この点、ローマ元老院による宣戦布告は、まさに妙策としか言いようがありません。宣戦布告はアントニウスには宛てられず、アントニウスとその部下に対しては、「ローマにも戻れば無罪放免」という、極めて寛大なものであったからです。つまり、部下の多くが、アクチウムにおいてローマ側に寝返ったのです。

 

 当時としては高齢者となっていたアントニウスは遺言書を認めており、その内容は、その全領土をクレオパトラの子供たちに分割して与えるというものでした。このことは、アントニウスの部下やその家族たちが、子孫代々にわたり、将来、クレオパトラ独裁のエジプト王国の支配されることを意味しております。自らの一族の未来が予測し得たからこそ、寝返るローマ人が多かったと推測するこができます。

 

 こうした意味で、‘アクチウムの戦いはなかった’のであり、無事に戻ってきた出生兵の家族たちは大喜びし、戦乱の時代に終止符を打ったオクタヴィアヌスは、多くの人々に救世主として大いに讃えられることになったのです(ただし、ローマ皇帝崇拝の始まりともなった…)。しかしながら、中近東には、クレオパトラの傀儡であったヘロデ王朝が続いておりました。(続く)

 

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天界の有無を争ったアクチウムの戦い

 紀元前31年、共和制ローマ軍とアントニウス・クレオパトラ軍の間で戦われたアクチウムの戦いは、人類史上にあって特に名の知れた戦いです。兎角に軍事・政治的な側面が強調されがちですが、この二つの勢力の正面衝突は、「人間とは何か」、「人はどのように生きるべきか」、そして、「人間社会はどうあるべきか」という根本的問いをめぐる宗教・思想的対立に決着をもたらした天王山でもありました。つまり、人類の方向性を決定する戦いでもあったのです。

 

 一つの考え方は、共和制ローマの多くの人々が共有していた思想です。キケロが『スキピオの夢』で、死後に天界に入れる人の条件として述べたように、この世にあっては、人々のために貢献すること、国家をよく守ること、そして高潔な人生を送ることを人生の目標とする思想と言えましょう。より高次な天界に行くことができれば、そこは理想の世界があるから、肉体は死すとも魂は永遠に幸せに‘生きる’ことができるとされたのです。アクチウムの戦いにあたって、ローマ元老院はオクタヴィアヌスを総司令官に任命しますが、オクタヴィアヌスこそ、キケロが「ローマの救世主」と褒めたたえ、独裁制(ディクタトール体制)からの解放に期待を寄せた人物です。オクタヴィアヌスもまた、生涯にわたりキケロを尊敬していました。

 

 もう一方の考え方は、天界の存在を否定する思想です。もとよりギリシャ人の一般的な死生観は(この点、プラトンは‘異端’であった…)、善人も悪人も死後は皆ハデスという地獄へ行くというものでした(古代ローマの宗教は、ギリシャの多神教と習合しつつも、天界思想があったことは、ギリシャとの違い…)。ハデスの思想では、「どのように生きようとも、どの道地獄へゆくのであるならば、この世にいる間は快楽を極めよう。享楽的過ごそう。」ということになり、ギリシャ人の間に現世ご利益、快楽主義、エゴイズムを肯定する思想(エピキュリアン)が生じます。アントニウスとクレオパトラはこの思想の持主であり、手段を択ばす、勢力拡大や富の集積に走るわけです。その強欲さや野蛮さを咎めてアントニウスを「ローマの敵、国家の敵」と非難したキケロは、アントニウスによって暗殺されています。

 

 このように、考えますとアクチウムの戦いは、上述した2つの思想のどちらが、人類社会において主たる死生観の地位を占めるのか、という重大な対立が表出したものであり、当時の人々は、その結果をかたづを飲んで見守っていたことでしょう。(続く)

 

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クレオパトラのミイラやお墓がない理由

 『死者の書』や「モーゼの十戒」は、窃盗を厳しく戒めている点において共通しており、8月24日付本ブログで述べましたように、その理由は、キリスト教の起源ともなった超古代宗教が、窃盗が「地獄行き確定」の宗教であったことにあると考えることができます。

 

 クレオパトラのミイラもお墓も発見されていないことは、エジプトにありながら、彼女は、この超古代宗教には無関心であったからことを示しているのかもしれません。エジプト・プトレマイオス朝は、アレキサンダー大王の遠征とその遺領分割を通して、ギリシャの軍人プトレマイオスによって開かれた王朝です。プトレマイオス朝時代のエジプトでは、ギリシャ人たちも超古代宗教を信じるようになり、盛んにミイラを作りますが、クレオパトラは、違っていたようです。すなわち、クレオパトラは、ギリシャの多神教、並びに、快楽主義、現世ご利益主義、天界(天国)の否定、復活の否定などで知られるエピクロス派の影響をより強く受けていたと推測することができます。ギリシャの神々は、時折、今日の刑法や道徳に反するような行為を行いますので、人々に倫理的規範を与えることのない宗教です。また、エピクロス派に至っては、ほとんど、本能主義や悪魔崇拝に近く、クレオパトラは、自らを律しようともせず、エゴイズムの権現のような野心家であったのでしょう。

 

 クレオパトラは、もちろん、『トゥーラ(旧約聖書)』も『死者の書』も読まなかったのでしょうし、クレオパトラを女王の座に復位させるために、ユリウス・カエサルがプトレマイオス11世に対して興したナイルの戦いの際に、なぜか「知の宝庫」とされたアレキサンドリア図書館は焼失しています。

 

 従いまして、このような悪徳の人物を支配者とした人々の辛苦は、押して図るべしであり、ヘロデ王朝の間接支配地の中近東におきましては、1世紀のイエスの時代でも治安の悪化と盗賊の横行が続いていたのでしょう。また、人々がミイラを作ることを妨害していたとも考えることができます。

 

 ちなみに、クレオパトラのミイラもお墓も発見されていない理由は、あるいは、ローマ側が、クレオパトラのような極悪人には、復活されては困るとして、ミイラも作らせなかったからなであるのかもしれません(エジプト人も含めて、誰もクレオパトラに復活してほしいと願う人はいなかった?)。ローマの男性を堕落させ、ローマ社会を腐敗させたとしてクレオパトラに宣戦布告したのは、他ならぬローマの元老院であったのですから。(続く)

 

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