‘世界は一つ’という認識の歴史的形成過程(その2):紀元前に第一次大航海時代はあった?
地球は、球体であり太陽のまわりを回っている、すなわち公転しているという地動説Heliocentrismは、遅くとも紀元前4世紀には、古代ギリシャにおいて学術的に発見されており、ギリシャ・ローマ時代には、いわば「天文学上の常識」となっていたことは、昨日述べました。
地動説は、ギリシャ半島やアナトリアなどの地中海に面した地域に都市国家ポリスを形成し、地中海東部沿岸域をおもな活動の拠点としていたギリシャ人にとりましては、実用性においてさほど大きな意味は持たなかったかもしれません。アカデミックな観念的世界のお話ということになるのでしょう。
しかしながら、地動説はギリシャ人と近い関係にあったフェニキア人Phoeniciansにとりましては、大きな意味を持ったかもしれません。それは、フェニキア人は、古代にあって唯一遠洋航海が可能な船を造ることのできる技術を持っていたからです。
丸い大きな船底によって安定性の優れた船は、波の荒い大洋に出ても航海することができます。紀元前の世界にあって、このような船を造ることができたのは、唯一フェニキア人なのです。フェニキア人が、大木のレバノン杉の生い茂る中近東地域をおもな活動の拠点とした理由は、大型木造船を建造できる木材を入手するためであった可能性もあり、また、カルタゴに代表されるような大きなドックを建造する技術もこの点とかかわっているのでしょう。
こうした造船技術によって大洋に出て行くことができるようになったフェニキア人なのですが、そうやすやすとは、大海に出て行くことはできなかったはずです。大海原の先に何があるのかが、わからなかったはずであるからです。中世におきまして、世界は平面であると信じられていましたように、また、海の向こうには滝があって奈落に落ちることとなるとも信じられていましたように、海の向こうの世界に対する何らかの確信が無ければ、海(水平線)に向かって漕ぎ出すことには抵抗があったはずです。しかしながら、仮に、フェニキア人が地動説を信じていたとしたどうでしょう。地球は球体であるから、海の向こうにも陸地があって、また、出発点に戻ってくることもできるはずであると考えたはずです。
このように考えますと、船上から眺めますと、水平線がどこまでも続いてゆくことなどは、フェニキア人にとりましては至極当然のこととして認識されたはずです。かくて、フェニキア人たちは、丸底の大型船乗り込み、遠洋を渡り、ヨーロッパ、北アフリカ、インド、アジアなどの見知らぬ土地へと向かっていったのです(フェニキア人たちは、あらゆる‘見知らぬ土地’へ行ったようであり、歴史の父ヘロドトスHerodotusの『歴史The Histories』によると、フェニキア人たちは、その‘見知らぬ土地’の人々が人食い人種であることを恐れたそうです)。
15・16世紀、コペルニクスが地動説を唱えた時代は、まさに歴史区分において「大航海時代the age of European voyages of discovery」と称されている時代です。マゼランFerdinand Magellan(1480?-1521)による世界周航計画によって、地動説の正しさは証明されました。しかしながら、古代ギリシャ・ローマ世界の紀元前にも大航海時代はあったのです。すなわち、15・16世紀は、第二次大航海時代であり、第一次大航海時代は、古代ギリシャの天文学・数学において地動説が信じられていた時代であったと言えるのではないでしょうか(地動説、もしくは、地球が球体であるとする説は、遅くとも紀元前12世紀頃からフェニキア人の間で既に信じられていた可能性があり、古代ギリシャの数学者たちが、それを学術的に証明したのかもしれません)。