昨日、本ブログにて「古代ギリシャ人は、ペロポネソス半島、エーゲ海に浮かぶ諸島、アナトリアなどに小さな都市国家ポリスを建てて分散して居住しており、たとえ植民国家を進出地につくろうとも、面的な繋がりを持つ全領域的支配への関心は薄かったと考えることができる」と述べました。しかしながら、「アレキサンダー大王がいるではないか」という反論もあるではないでしょうか。
そこで、本日は、アレキサンダー大王Alexander the Great(B.C.356B.C.323)の歴史的・文化的背景について考えてみましょう。
紀元前3世紀に登場したギリシャのアレキサンダー大王と言いましたならば、「世界帝国」とも称することのできるような大帝国の建設者として、歴史上にその名を留めていると言えます。そして、アレキサンダー大王は、ギリシャ文明・世界を代表しているかのように認識されがちですが、実はそうではありません。
アレキサンダー大王は、当初はギリシャ世界を構成していたマケドニアという一ヵ国の国王に過ぎませんでした。ペロポネソス半島の付け根に位置し、トラキアと隣接するマケドニアが、そもそも他の諸ポリスとは聊か異なる文化と気質を有していたことは注目されます。
すなわち、ギリシャの他の諸ポリスが、山がちなギリシャ半島の入り江の小さな港湾やエーゲ海の島々などに建設されたこともあって、海洋的であったことと比較すると、ギリシャ世界と他の世界の境界線上にあったマケドニアは、ヨーロッパ・ユーラシア大陸最東南部に建設されたこともあって、その気質は、“大陸的”であったと言えます。さらに、他の諸ポリスが、こうした地理的条件もあっていわば“小規模精鋭”で、“民主的”であったことと比較すると、一時期ペルシャ帝国に支配されていたこともあったマケドニアは、非民主的であって専制的な政治形態を持っていたようです。
このような地理的・歴史的背景は、マケドニア人が、陸続きの面的支配に関心があった可能性を示しています。ペルシャ帝国に支配されたことで、逆に面的な支配のノウハウを手に入れたマケドニア人が、ギリシャ世界では常識であった地動説を以って、世界支配を計画したことは、ありえる推測の範囲に入るのです。
ピタゴラス学派のフィロラウス・クロトンPhilolaus of Croton (B.C. 470 –B.C. 385 )、ヘクタスHicetas (B.C. 400 – B.C. 335 BC) が、学術的に地動説Heliocentrismの正しさを論証し始めた時期は、ちょうどアレキサンダー大王が登場した時期と重なります。あるいは、ギリシャ世界の辺境にありながらも、ギリシャの学術文化の強い影響をも受けていたアレキサンダー大王は、“世界は一つ”であって球体であるという確信から、世界の果てまで遠征し、世界を政治的・経済的に統一支配するという計画を立てたのではないか、と考えることができるのです。このように考えますと、歴史上、地政学的思考geo-political thinkingを初めて持ち、実行に移したのは、アレキサンダー大王であったのかもしれません。
コペルニクスCopernicus(1473-1543)が地動説を再び学術的に論証した時期は、まさに第二次大航海時代と重なり、そしてアメリカ大陸や極東の日本にまで布教活動を行ったイエズス会士達は、地動説の正しさを確信していたそうです。