グレゴリウス暦の採用に見る西郷隆盛の野心
今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。明治政府の要人の岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳らが条約改正のために横浜から欧米各国へ出発した明治4年(1871年)11月12日から、明治6年(1873年)9月の帰国までの約2年間、西郷主導留守内閣が行った政策のうち、今日は、太陽暦の採用問題について扱います。
西郷主導の留守内閣は太陽暦の採用し、明治5(1873)年12月3日は、明治6年1月1日に改められます。太陽暦solar calendarとは、具体的には、1582年にローマ教皇グレゴリウスⅩⅢ世によって制定されたグレゴリウス暦のことです。古来、時は皇帝が支配するものとされ、暦法の問題は皇帝の権力と密接に結び付く重要事でありましたので、西郷主導の留守内閣が、この時期に暦法を改めたことには、何らかの目的があったのではないか、と推測することができます。
この点、注目されるのが、グレゴリウス暦の制定された1582年、すなわち、天正10年の6月2日に、本能寺の変が発生していることです。本ブログにて、本能寺の変には後にイルミナティーの中心勢力となるイエズス会が深く関わっていることは、再三にわたり指摘しております。天正10年の6月2日という日付は、「0・1・2・6の法則」に適った日付であり、本能寺の変とは、明智光秀による織田信長への謀反事件ではなく、易姓革命を含むクーデターであったと推測される日本史上最大級のエポック・メーキングであったと考えることができるのです(織田信長は、朝廷の制圧し、自らが‘天皇’となることを目的に上洛していたのではないか)。
西郷隆盛がイルミナティーのメンバーであった可能性が濃厚である点を踏まえますと、西郷による明治6年のグレゴリウス暦の採用は、「チーム明治天皇」の一人として、‘天皇位’を狙う西郷の野心の表れであるとする仮説は、強ち否定できないかもしれません。織田信長は49歳で卒し、西郷隆盛も49歳で卒したとされていることは、偶然では無い気がするのです。
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(続く)