明治維新の際も同様であり、大奥の滝山問題でも扱いましたように、当時の日本国政府とも言える徳川幕府政権は人治主義による機能不全に陥っており、これに対する不満から、日本国政府を立て直し、より民主主義的・法治主義的な政府をつくることを目指す人々が、維新側には、多く含まれるようになっていたと考えることができます。すなわち、こうした人々は、徳川幕府を廃し、日本古来の太政官制に戻すことによって、問題を解決しようとしたと推測することができるのです。日本古来の太政官制では、伝統的に天皇は通常は幼児であって、国家祭祀を担うのみの存在ですので、太政官制(官庁)と帝国議会(国会)の両輪におきまして、議会制民主主義は機能すると予測されていたのでしょう。
従いまして、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」、「上下心を一にして、さかんに経綸を行うべし」、「官武一途庶民にいたるまで、おのおのその志を遂げ、人心をして倦まざらしめんことを要す」という、国民主権や議会制民主主義を謳った明治元年3月14日(1868年4月6日)に天皇が天地神明に誓約する形式で、公卿や諸侯などに示した明治政府の基本方針である「五箇条の御誓文」は、こうした人々の願いを成文化したものであり、すべては、うまくゆくように見えたかもしれません。
ところが、明治23年に施行された『大日本帝国憲法』の第一条は、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」であり、五箇条の御誓文の精神は、消え去ったものとなっておりました。しかも、明治維新におきまして、皇統の秘かなる断絶があったと推測されますので、天皇をめぐっては、「万世一系ノ天皇」であるはずが、「チーム明治天皇(大室寅之助・西郷隆盛・の謎の長男(呉亀力)」となっており、か細い幼児であるはずが、軍隊の観閲式で大号令を発するような厳つい野性的な大男となっていたのです。
すなわち、徳川幕府への不満から明治維新は、成功するのですが、いつのまにやら進むべき方向をイルミナティーによって変えられていたと言えるでしょう。
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(続く)