時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

本能寺の変は世界支配志向勢力の皇室利用のはじまりか

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。昨日は、本能寺の変がこれまでの通説とは異なり、信長による朝廷制圧であった可能性を提起いたしました。その後の経過を見てましても、12月13日付本ブログにて挙げた以下の5つの世界支配のための基本戦略に沿った流れを見出すことができます。再掲しますと、6つの戦略とは、凡そ以下の通りです(昨日までのブログでは、5つと表記しましたが、本日、1)を二つに分けて4)を加え、6つに修正しました)。
 
1)王室を断絶させるか、偽者にすり替え、操り人形、傀儡の人物に権力を集中させる(独裁化)。
2)王族の中で最も御し易い人物を選定して教育を施し、宮廷クーデタを起こさせて王位に就かせる。
3)現地国民の中から自らの手先となる人物を一人、または、数人を選定し、有力者に育てた上で王朝交代、あるいは、新政権を樹立させる(特に社会に恨みを抱く下層、異民族や移民、あるいは、不満層等から選ぶ)。
4)王室や政府に外国人を送り込み、支配者にする。
5)宗教等を利用して、現地国民の中の特に最下層民や不満層を組織し、国家破壊活動に従事させ、内乱、あるいは、革命を起こさせる(武装に際しては、武器を提供)。
6)既存の民族国家には別の民族を送り込み、権力を与えて新たな支配階層とし、間接支配する。
 
秀吉に対する評価をめぐりましては、草履取から身を興し、太閤ま上り詰めたことから、出世物語として憧れる人と眉をひそめる人とがあり、その人物評価は分かれますが、基本的には、世界支配の5つの基本戦略に沿った人生を歩んだように見えます。特に、イエズス会は、国民の中でも特に下層出身者を支配者に選ぶ傾向にありますので、この点も、秀吉の異例の出世と符合します。秀吉政権の下で、太閤検地や刀狩など、権力の集権化は進みましたので、仮に、イエズス会が、秀吉を巧みに操って日本国の間接支配を計画していたと想定いたしますと、日本国民の前には、重税(太閤検地)や抵抗権の喪失(刀狩)等による抑圧の苦しみが迫っていたとも言えます。
 
しかしながら、秀吉による「耶蘇禁止令」からも推測されるように、イエズス会の目論みの通りに進まなかったようです。その理由は、海のかなたで時代を画する重大なヘゲモニーの転換が生じていたからです。この頃、新教国の英蘭が躍進しており、イエズス会の背後にあったスペインが、ついに1588年のアルマダの海戦で英国に敗れ、アジア地域にありましてもカトリック勢力が影響力を落としてきていたのです。こうした事情を背景に、機を見るに鋭敏な秀吉は、イエズス会との距離を持とうとしたのかもしれません。一方、徳川家康も、オランダ人のヤン・ヨーステンや英国人のウイリアム・アダムスを重用したように、新教勢力の取り込みとも見られる行動を見せるのです。
 
このように、世界史の流れと密接に繋がっていたがゆえに、紆余曲折した戦国時代末期であったのですが、巨視的に見ますと、本能寺の変は、イエズス会などの特定の世界支配志向勢力が、自らの支配確立のために、皇室に対して手を伸ばした最初の事例であったかもしれないのです。江戸時代に朝廷が冷遇されたのは、あるいは、朝廷内に残されていたイエズス会の影響力を幕府が警戒したためであったとも推測されます。
 
このことは、‘真実の本能寺の変’が、その発生当時から、秀吉政権、徳川幕府をはじめとした権力側によって隠匿された理由ともなります。イエズス会に限らず、仮に、世界支配志向勢力が日本国の国家権力を掌握しようと計画したといたしますと、群雄割拠以前の古代からあり、日本国民の崇敬の対象であった朝廷ほど、好都合の組織はありません。朝廷を掌握して傀儡とすれば、日本国を支配することができる可能性があるのです。
 
そして、その世界支配志向勢力による”支配の駒”としての‘皇室’の位置づけは、幕末の問題と繋がり、さらには、4百年以上の月日を経た今日におきましても、‘皇室’の問題と繋がっていると推測されるのです。
 
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(続く)