時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

本能寺の変の目的は信長による朝廷制圧

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。本能寺の変は、幕末史、現代史、そして、‘皇室’問題とも繋がる極めて重要な事件ですので、今日も本能寺の変について扱います。そこで、本能寺の変が、今日通説とされております状況とは、まったく異なっていた可能性について、まずもって、補強・確認しておくことにしましょう。この点におきまして、共通認識を構築しておきませんと、問題の核心が見えてこないからです。
 
昨日、本ブログにて、「1)一万五千人とされる光秀の兵士が、京都洛中に入ってきているのに、信長が気付かなかったはずはない(甲冑の帷子の音は、かなり遠くからでも聞こえるそうで、ましてや、1万5千人の兵士の行軍は、大きな騒音)」と述べました。戦国時代にあって、忍者(忍びの者・くのいち)が大いに活躍したとされておりますように、戦国大名たちは、暗殺には、十分気を付けていたと考えることができます。信長も、周囲にそのような忍者を配置していたと考えられますので、まずもって、光秀軍が、京都に向かっていることは、はやい段階でわかっていたはずです。さらに、兵士が行軍する際の甲冑の音は、数キロ先からも聞こえるそうですので、光秀軍が本能寺に到着するまでの間、信長がまったく気づかずにいたとは考えられないのです。すなわち、難を逃れる時間は、十分過ぎるほどあったのです。
 
さらに、ルイス・フライスの書簡に、信長は、パラッティオに逃げ込んだとありますように、仮に、光秀軍の来襲の報を受けて信長が御所に逃げ込んだといたしますと、これも奇妙な行動である、と言うことができます。それは、仮に、逃亡の意思が信長にあった、といたしますと、逃亡先は、御所ではなく、安土城であったはずであるからです。当時、朝廷と信長とは、一触即発の緊張関係にあり、その対立は、極めて先鋭化していたことは、当時の史料から窺うことができます。安土城天守閣の下に、御所を造営していることは、朝廷側も知っていたはずですので、朝廷にとりまして信長は、排除すべき存在であったのです。したがいまして、仮に、逃亡先を選ぶとしましたならば、敵の多い御所は危険であったはずです。家康が、本能寺の変の報を受けて、「伊賀越え」を行い、堺から居城のある遥か遠くの三河まで戻ったように、常識的に考えますと、自らの居城に戻るのが安全策なのです。そして、信長には、十分にその時間はあった、と推測することができるのです。
 
では、なぜ、信長は、光秀軍の上洛を知りながら、逃亡せずに、御所に向かったのか、昨日、仮説として提起させていただきましたように、信長の上洛の真の目的が、光秀軍を用いての朝廷制圧にあったからである、という理由以外に、その理由を説明することはできないのです。
 
では、御所に入った信長はどうなったのでしょうか。ルイス・フロイスの書簡によりますと「頭髪の一本も残さずに消滅した」とされております。この一文を文字通り解釈すれば、御所で爆発があって、信長は亡くなったということになります。しかしながら、その一方で、信長は、御所の奥深くに座す‘闇の天皇’となった、という解釈も成り立ちます。どちらが、歴史の真実であるのか、この点を論証することは難しいのですが、本能寺の変には、その後の日本史の流れともかかわる重要な問題が潜んでいる可能性がある、と言うことができるのです。
 
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(続く)