時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「黒いユダヤ人」の反知性主義

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。インドのユダヤ人社会が、「白いユダヤ人」と「黒いユダヤ人」に分かれており、通婚の禁止などがあって敵対関係にあったことには、インドのカースト制の特徴も原因しているようです。
 
「白いユダヤ人」は、インドにやってまいりますと、ヴァイシャというカーストのサブ・カーストに分類され、解放奴隷や現地や中近東・アフリカ出身の女性奴隷とのハーフである「黒いユダヤ人」は、シュードラというカーストのサブ・カーストに分類されたそうです(バラモン⇒クシャトリア⇒ヴァイシャ⇒シュードラアンタッチャブル)。そして、ここで注目されるのが、カースト制におけるヴァイシャとシュードラとの間の以下の一線です。インドのカースト制には、「再生族」と「一生族」とがあり、「ヴァイシャより上の3カーストの子弟は、5、6歳で学問を始める通過儀礼をつうじて二度目の誕生を持つが、シュードラは、動物として生まれたままに止まるという区別がある(『インド・ユダヤ人の光と闇』、頁152)」そうなのです。このため、ヴァイシャとシュードラとの間の婚姻は禁じられており、「ヴァイシャとシュードラの間の差別と同じ差別を、白いユダヤ人と黒いユダヤ人の間に認める(同著、頁152)」ことができるそうです。
 
学問を始めることで、はじめて人間となるという思想は、『聖書』「創世記」におけるアダムとイブが「善悪を知る木の果実the tree of knowledge of good and evil」を食するというお話を想起させます。姿形は人間であっても、エデンの園の東で動物状態にあった人類は、「善悪を知る木の果実the tree of knowledge of good and evil」を食すことで、「神様志向型人間god or goddess minded human」としていわば‘再生’したことになるからです。学問、すなわち、知識を得て知性を磨くことこそが、「善悪を知る木の果実the tree of knowledge of good and evil」を食すことであるということになるでしょう。
 
 カースト制における差別問題といいましたなら、とかくアンタッチャブルが注目されますが、‘ユダヤ人’内の対立問題を考える上で、このヴァイシャ以上の3カーストシュードラとの‘人間か動物か’の区別の問題にも、注目すべきです。こうした差別問題から「黒いユダヤ人」は、3カーストの象徴でもある学問や知性を嫌った可能性が十分にあるのです。
 
そして、シュードラや「黒いユダヤ人」の学問を不必要と見なす反知性主義は、アッシジのフランチェスコの「フランチェスコは貧しさを礼賛することにかけては徹底しており、物質的な豊かさのみならず、精神的ないし知的な豊かささえも認めなかった」という点とも呼応してまいります。フランシスコ会イエズス会内の親フランシスコ派によるインド布教は、「黒いユダヤ人」には受け入れやすかったのではないか、と推測することができるのです。当時のカトリックフランシスコ会イエズス会の影響を強く受けておりましたので、異端審問によって迫害の対象となったのが、むしろ「白いユダヤ人」であった理由は、この点にあったのかもしれません。
 
このように考えますと、フランシスコ・ザビエルの真の布教の目的は、やはり人類の非文明化・動物化である可能性が高いと言えるでしょう。

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