時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「黒いユダヤ人」によって擁立されたヴィクトリア女王?

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。「黒いユダヤ人」勢力が、エリザベスⅠ世の即位を利用して、その目的達成のための媒体を、ポルトガルやスペインから英国へと乗り換えたという歴史は、ヴィクトリア女王の即位問題にもつながっていると推測することができます。
 
2月11日付本ブログにて、ヴィクトリア女王の母のマリー・ルイーゼは、コーブルクという北ドイツの一公国の出身であり、1430年以降、コーブルク市の市章は聖マウリティウスという黒い肌を持つネイティブ・アフリカンの肖像となっていることを指摘いたしました。その由来は不明のようですが、黒人を市の守護神としていることは、イエズス会の黒マリア信仰を想起させるとともに「黒いユダヤ人」をも想起させます。
 
「黒いユダヤ人」とは、黒人、中近東のアラブ系民族、及びインドのドラヴィダ系民族の奴隷の解放、もしくは、混血によって生じたようですので、コーブルグは何らかの歴史的理由によって「黒いユダヤ人」勢力と密接な繋がりを持つ領邦国家となっており、このことから市章を黒人となしたとする仮説は成り立つ余地があります。では、どのようにして「黒いユダヤ人」たちは、ヨーロッパ北部にまで現れるようになったのでしょうか。
 
そのルートの一つとして、イベリア半島経由を挙げることができます。8世紀以降、イスラム支配下にあったイベリア半島には、「白いユダヤ人」とともに「黒いユダヤ人」も多数居住していたと考えることができます。イスラム教国では、「白いユダヤ人」よりも「黒いユダヤ人」が優遇されていたようですので、むしろ、人口比としては「黒いユダヤ人」の方が多かったかもしれません。
 
こうした状況にあったイベリア半島におきまして、レコンキスタ運動が起こりますと、「黒いユダヤ人」たちは、故地に戻るという選択をせず、イベリア半島に留まるか、もしくは、ピレネーを越えて徐々に中央ヨーロッパ、そして、英国へと移住していった可能性はあります。もとより、貿易や金融業に携わることの多かった「黒いユダヤ人」たちは、商業活動を通して、支店などがある地理に明るい地点に移住していったと推測することができます。マスター・ロバート氏も、こうしてイベリア半島から英国へ移住してきた「黒いユダヤ人」の一人であったのでしょう。
 
コーブルクには、こうして移住してきた「黒いユダヤ人」のコミュニティーがあった可能性は、1473年に建設された聖ニコラウス礼拝堂(St. Nikolauskapelle)が、1873年から1932年の間はユダヤ教シナゴーグとして使用されており、この教会はおそらく、シナゴーグに改装されたドイツ唯一の教会であろうと推測されている点によっても補われます。ヴィクトリア女王の配偶者であるアルバート公もコーブルグの出身であることは、ヴィクトリア女王と「黒いユダヤ人」勢力との関連をさらに強固なものとしたはずです。

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(続く)