時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

朝鮮出兵に参加した戦国武将はイエズス会系?

  今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。日本史では、「戦国時代」、「織豊時代」と呼ばれている16世紀から17世紀初頭にかけては、世界史的に見ますと、大航海時代、そして、新大陸発見の時代であり、マゼランによる世界一周によって地球が球体であることが証明された時代でもあります。このことは、これまで漠然としていた‘世界(地球)’の範囲が明確化されたことを意味し、‘世界支配’という概念が、現実味を帯びてきていたことをも意味いたします。
 
当時、その‘世界支配’を目標としたのがイエズス会であったと仮定いたしますと、1549年におけるイエズス会士のフランシスコ・ザビエルの来日は、否が応でも、日本国が、この世界支配計画における被征服地、もしくは、イエズス会士のコエリョも正直に述べておりますように、日本人が世界支配の達成に利用し得る‘尖兵’として認識されるようになることを意味しているはずです。
 
この点から、文禄・慶長の役朝鮮出兵)を眺めてみますと、総出征兵数総勢158,800人の兵力において、突出した兵数を提供している武将には、イエズス会との接点があるという特徴を認めることができます(通常は、数百人から2千人、3千人程度)。豊臣家以外で6000人以上の兵数を提供したのは、肥前鍋島直茂の12,000人、肥後熊本の加藤清正(第一軍第2番隊大将)の10,000人、薩摩・琉球島津義弘の10,000人(琉球与力)、備前岡山の宇喜多秀家(第二軍総大将)の10,000人、阿波の蜂須賀家政の7,200人、肥後宇土小西行長(先鋒)の7,000人、豊後の大友義統の6,000人となっております。
 
肥前の鍋島氏は、もとより領地にはキリシタンが多いことに加え、名護屋城が築かれるなど、朝鮮出兵軍の本陣所在地の領主でありました。兵数1万人を提供していた加藤清正につきましては、先に指摘いたしましたように、イエズス会との密接な関連が推測されます。島津氏の薩摩は、ザビエルの上陸地であることもあって、イエズス会の影響の強い地域です。備前岡山の宇喜多氏秀家は、嫡妻の豪姫がキリシタンであったことから家臣団に対してキリシタンへ改宗するよう命令するなど、キリスト教寄りの大名であったと言うことができます。蜂須賀家政は、ディオゴ結城の影響でキリスト教を信仰し、洗礼を受けております。キリシタン大名小西行長は言うにおよばず、大友吉統(義統)は、大友宗麟(ドン・フランシスコ)の嫡男であり、後に棄教するものの、夫人や子供らと共にキリスト教の洗礼を受けコンスタンチノという洗礼名を受けております。
 
このように、朝鮮出兵に際して兵力を提供した武将には、すべてイエズス会と近い関係にあるという特徴があるのです。

 
よろしければ、クリックをお願いいたします。
 
 
(続く)