時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

オランダにはなぜ「黒いユダヤ人」が多いのか

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。1492年にグラナダが陥落し、イベリア半島の最後のイスラム王朝ナスル朝)は消滅いたします。これによって、イベリア半島全域はキリスト教世界の一員となりました。

 しかしながら、長くイスラム、並びに、黒いユダヤ人による政治・経済支配を受けていたイベリア半島キリスト教国によって統一されたことは、この地を純粋なキリスト教世界となるという方向へは向かわせず、むしろイスラム的要素が取り込まれ、陰に陽にイスラム色・ユダヤ色を帯びる方向へと向かわせ、さらには、ヨーロッパに拡散するという深刻な問題をもたらすことになったようなのです。イスラム時代にアジア・アフリカ地域から既にイベリア半島に移住しており、この地の経済活動と深く関わっていた「黒いユダヤ人」たちの多くが、アジア・アフリカ地域へは戻らなかったことが、その大きな要因であり、さらに、「黒いユダヤ人」たちが、イベリア半島からヨーロッパ各地へと流入していったことが、この問題を複雑化、深刻化させたと言うことができるのです。
 
特に、ブリューゲルPieter Bruegel1525-1530年頃生 - 156999日没)が、こうした問題を強く意識した理由は、1556年からネーデルランドが、1581年の独立までの間イスパニア(ㇵプスブルグ家)領ネーデルランドであった点に求めることができるかもしれません。
 
スペインにおいて、ちょうどレコンキスタの成ったその同じ年の1492年に「ユダヤ人追放令」が発せられます。このことから、多くの「黒いユダヤ人」たちは、ポルトガルやヨーロッパ各地へ移住していったようです(キリスト教に改宗して、いわば「隠れ黒いユダヤ教徒」となって残留する人々も多かった)。特に、ブリューゲルの時代のオランダは、スペイン領であったことから、「黒いユダヤ人」や「隠れ黒いユダヤ教徒」たちが、この時期に多く移住してきたと考えることができるのです。オランダの‘ユダヤ人’であったマタ・ハリが、インドネシア人と言っても通用するような褐色の肌を持っていたことは、このようなオランダの歴史と関連していると言えるでしょう。
 
ブリューゲルの傑作とされる『雪中の狩人』Jagers in de sneeuw
という山の上から、多数の猟犬を引き連れた狩人たちが、のどかで平和な村落に向かっているという構図の絵と西郷隆盛が猟犬を連れていたこととの関連は、本ブログで扱いましたが、この絵は、ピレネー山脈を越えて、中央ヨーロッパに入ってくる「黒いユダヤ人」の姿を描いているのではないでしょうか。

 
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(続く)