時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

オランダ東インド会社の「黒いユダヤ人」と日本

今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。イベリア半島とオランダがハプスブルグ領であったことから、オランダに「黒いユダヤ人」が移住するようになり、このことがカール・マルクスがヨーロッパ中央部に出現する原因となったことについて、昨日は、その経緯を纏めてみました。
 

そして、オランダと言いましたならば、日本国が、江戸時代の鎖国時代において、長崎の出島を交易港として、その門戸を開いていた唯一の国家であることは、注目されます。オランダには、オランダ東インド会社があり、日本との通商に深く関わっていたようです。Wikipedia(日本語版)によりますと、「オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602320日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650ギルダー、重役会は17人会(HeerenXVII)と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワや長崎出島などに置かれた。18世紀末の17991231日にオランダ政府により解散させられた。江戸時代の日本では「こんぱんにあ」「こんぱんや」と呼ばれた」そうです。

 
Wikipedia(日本語版)にオランダ東インド会社について「スペイン、ポルトガルユダヤ人は改宗が強制され、異端審問などでひどい扱いを受けていた。そこから追放されたユダヤ人はアムステルダムなど各地に散在。ユダヤ人は商人などが多いので、東インド会社ユダヤ人が関係している」と記されてもおりますように、「黒いユダヤ人」達がその社員となっていたようです。
 
このことから、鎖国政策が採られるようになりますと、イエズス会(フランシスコ派)によって日本国内につくられていた潜伏キリシタンカクレキリシタン達の秘密結社(クロ教徒)は、1799年までは、出島のオランダ東インド会社を通して、イエズス会も含めた「黒いユダヤ人」の国際組織との連絡を維持していたと推測することができます。
 

では、1799年に東インド会社が解散させられ、1800年を迎えますと、「黒いユダヤ人」の国際組織と潜伏キリシタンカクレキリシタン達との関係は、どのようになったのでしょうか。オランダ東インド会社の解散直後から、1811年の露艦隊のゴロウニン事件、1816年の英艦隊による琉球への通商要請、1817年以降の英艦隊の浦賀沖来襲など、ロシア・英国・米国などの諸国からの日本に対する開国の要求が強まります。このことは、偶然なのでしょうか。‘黒船’のペリーがユダヤ人であった点を踏まえますと、日本への開国要求の背景には、「黒いユダヤ人」の国際組織があった可能性を指摘することができるかもしれません。


 

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(続く)