オランダ東インド会社の「黒いユダヤ人」と日本
そして、オランダと言いましたならば、日本国が、江戸時代の鎖国時代において、長崎の出島を交易港として、その門戸を開いていた唯一の国家であることは、注目されます。オランダには、オランダ東インド会社があり、日本との通商に深く関わっていたようです。Wikipedia(日本語版)によりますと、「オランダ東インド会社(オランダひがしインドがいしゃ、正式には連合東インド会社、オランダ語 : Vereenigde Oostindische Compagnie、略称VOC)は、1602年3月20日にオランダで設立され、世界初の株式会社といわれる。会社といっても商業活動のみでなく、条約の締結権・軍隊の交戦権・植民地経営権など喜望峰以東における諸種の特権を与えられた勅許会社であり、帝国主義の先駆け。アジアでの交易や植民に従事し、一大海上帝国を築いた。資本金約650万ギルダー、重役会は17人会(HeerenXVII)と呼ばれた。これには同国の銀行のホープ商会も参加した。本社はアムステルダムに設置され、支店の位置づけとなるオランダ商館は、ジャワや長崎出島などに置かれた。18世紀末の1799年12月31日にオランダ政府により解散させられた。江戸時代の日本では「こんぱんにあ」「こんぱんや」と呼ばれた」そうです。
では、1799年に東インド会社が解散させられ、1800年を迎えますと、「黒いユダヤ人」の国際組織と潜伏キリシタン・カクレキリシタン達との関係は、どのようになったのでしょうか。オランダ東インド会社の解散直後から、1811年の露艦隊のゴロウニン事件、1816年の英艦隊による琉球への通商要請、1817年以降の英艦隊の浦賀沖来襲など、ロシア・英国・米国などの諸国からの日本に対する開国の要求が強まります。このことは、偶然なのでしょうか。‘黒船’のペリーがユダヤ人であった点を踏まえますと、日本への開国要求の背景には、「黒いユダヤ人」の国際組織があった可能性を指摘することができるかもしれません。