ミノタウロス退治伝説に見える古代の民主制VS独裁制:マルクート教徒は古代から嫌われていた
本日も、古代史・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。イルミナティーを支える思想である「バビロニア系ユダヤ教」の根源を探りますと、そこには、古代世界において、西アジア、中近東から北アフリカにかけての地域に広がっていた「マルクート教Markute、Markus」と称される頭が牛で体が人間の姿をした野生的な邪教・邪神の姿が見えてまいります。
マルクート教では、自らの願いが、マルクート神の力によって叶うか否かが問題であるため、道徳心や倫理が顧みられることはなく、人身供養や食人が行われることは、昨日、扱いました。マルクート教は、自らのために他者を犠牲にしてもよいとするウルトラ自己中心主義のカルト宗教であるため、マルクート教徒が為政者となった場合、内に向かっては極めて残忍な圧政、外に向かっては征服事業をもたらすことになるのです。
マルクート教は、紀元前3000年といった太古よりあったようであり、ギリシャ神話に登場するクレタ島の怪物、ミノタウロスMinotaurは、その頭が牛で体が人間、そして、人身供養を求める点からマルクート神のことであると考えることができます。ミノタウロスとは、人間の女性であるクレタ島の王妃パシファエPasiphaëが、黄金の野牛と姦通したことによって出生した半牛半人の怪物です。すなわち、ミノタウロスは“王子様”であったのです。その頭部が牛であることに示唆されますように、極めて暴力的で野蛮な性格の持ち主であったことから、ラビリンス(迷宮)の内に閉じ込められることになるのですが、毎年数人の子供たちを生贄として要求しておりました(ミノタウロスが“王子様”であったからか)。こうしてクレタ島のミノス王家の支配下にあり、我が子を人身供養に差し出さねばならなくなった諸都市国家の人々は、恐怖に陥れられることになるわけです。そして、このミノタウロスを退治したのが、テセウスTheseusという都市国家アテネの創設者であるとされております。
テセウスはで、アテナイ・プラタイア連合軍がアケメネス朝ペルシアの遠征軍を迎え撃ち、連合軍が勝利を収めた戦いであるマラトンの戦いのあった紀元前4世紀頃の人とされておりますので、時代があいませんが、アテネのテセウスによるクノッソス宮殿のミノタウロス退治には、何らかの歴史の真実が投影されているのかもしれません。
アテネと言いましたならば、人類史上、民主主義を発明した都市国家として、今日でも誰もがよく知っている都市国家であり、人類史に与えたその影響は測り知れないと言えるでしょう。神話は、歴史の一端を語っていると言われますように、テセウスによるミノタウロス退治には、「民主制VS独裁制」の構図における民主制側の勝利が投影されていると推測することができるかもしれません。想像の域は出ませんが、ミノタウロスをめぐる歴史の展開と伝説の成立過程を以下のように描くことができるかもしれません。
神話ではミノタウロスが“王子様”であった点を踏まえますと、紀元前3000頃のクレタ島では、ある時、王妃のマルクート教徒との姦通、もしくは、王妃のマルクート教への密かなる入信によって、その世継がマルクート教徒となるという事件があったのかもしれません。そして、その世継、すなわち、ミノタウロス王子は、その地位を利用して、クレタ島民に圧政を敷くとともに、征服事業を展開し、支配地の住民に人身供養として子供を生贄に出すことを要求するようになったのではないでしょうか。そこで、こうした残忍なミノタウロス王子によって苦しめられていた支配地の人々は、後にアテネなどを建国することとなるアケーア人をその中心として結束し、ミノタウロス王子を追放することに成功したのではないか、と考えることができるのです。
すなわち、紀元前3000年という太古の時代に、支配地の諸国民の側からのマルクート教徒の独裁者の廃除という事件があって、この事件が、後に、紀元前490年のマラトンの戦いにおいて専制国家のアケメネス朝ペルシャを撃退した民主制国家アテネの偉業と結びつくこととなり、「テレセウスによるミノタウロス退治」という神話が成立したと推測することができるのです。
このように考えますと、ミノタウロス伝説とは、マルクート教徒が為政者となってしまうという王制の齎す最大の欠点を語り継ぐ神話であるのかもしれません。
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(続く)