時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

教育に”徳育”が必要な理由

 戦後の日本国の民主化、ならびに、自由化は、連合国によって、戦前の体制が全体主義的であったと認定されことから、殊更に、個人の自由と権利を強調するものとなりました。もちろん、個人の尊重は、言うまでもなく重要なことなのですが、その限界を抜きにしますと、社会の安全と安定を大きく傷つけれる方向に向かうこともあるのです。

 何故ならば、犯罪とは、ある個人が、自らの自由と権利のみを主張し、他者の基本権(生命、身体、財産)を侵害した結果であるからです。言い換えますと、無制限に個人の自由と権利の行使を認めることは、犯罪をも容認してしまうことに他なりません。人を殺したい、とか、他人の物を盗みたい、という個人の自由は、当然に社会秩序を崩壊させるのです。このことは、個人の自由と権利の尊重のみをいくら学校で教えても、社会倫理が育たない可能性を示唆しています。自分と同等の自由と権利を相手にも認め、相互に侵害しないように尊重し合うことを教えなくては、行き過ぎた個人の自由と権利の尊重は、むしろ、危険でさえあるのです。

 徳育、あるいは、道徳教育とは、社会で生きるためのマナーを教えることであり、そうして、良き人となりとはどのようなものかということを考える機会となりましょう。徳育なき教育が、モンスターペアレントや我儘な大人達を、大量に生み出したのかもしれません。