時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

自己浄化できない社会は堕落する

 しばしば、どんな悪事であっても、”昔からしてきたことだ!”とか、”大人の社会では常識だ!”と言い張って、うそぶく人々がいます。こうした自己弁護する人々は、果たして、社会に責任を持つはずの本物の”大人”なのでしょうか。

 大分県の教員採用汚職は、組織的な腐敗をあますところなく暴くことになりましたが、中には、先に述べたような言葉を弄して弁護しようとする意見も聞かれました。しかしながら、悪習を継承してそれをよしとし、糺すことができないのは、実は、未熟な証かもしれないのです。人類の発展は、過去の悪しきを反省し、それを乗り越えてる能力によってもたらされたものです。もちろん、それには、何が良くて何が悪いのか、という難しい善悪の判断も伴うのですが、少なくとも、反省能力と改善の能力こそが、今日の社会を構築してきたと言っても過言ではないのです。ですから、自己浄化、あるいは、自己改革できないということは、そのまま、その社会が停滞し、堕落することを意味してしまうのです。

 もし、膿があるならば、それを、すべて出し切りませんと、社会は健康を損ね、やがて死に至る病となるかもしれません。採用試験の汚職に垣間見る腐敗の闇の深さを思うにつけ、未来に良き社会を残すために、現在に生きる人々は、心して社会悪と戦わなければならないと思うのです。

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