時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

”日本開国論”のはき違え

  最近、新聞の紙面等で、”日本開国論”なる主張を目にするようになりました。それは、江戸時代に鎖国体制を敷いていた日本国が開国したことにより、明治時代に急激な躍進を見たように、現代にあってもまた、閉鎖的な状況を打破して世界に開かれた日本国をつくり上げれば、日本国の将来の繁栄は間違いない、というものです。しかしながら、よく考えてみますと、この現在の”日本開国論”は、一つ間違えますと、道を大きく誤ってしまうと思うのです。

 それは何故かと申しますと、経済的な開国と政治的な開国は別物であるからです。確かに、開国以来、日本国は、諸外国との間に通商を開き、産業力を蓄えてゆきます。その過程にあって、外国から知識や技術を学び、様々な情報にも接することになりました。しかしながら、その一方で、政治的には、独立した主権国家としての立場を強化し、関税自主権の回復など、不平等条約の改正に尽力を尽くしたのです。

 ところが、近年の開国論が述べている”開国”は、明治期の開国とは、いささか違うようなのです。それは、近年の開国論には、政治的な開国論が潜んでいるように思えるからです。政治的な開国、それは、国を明け渡すこと、つまり、戦国時代ならば”開城”ということになります。政治サイドの「1000万人移民政策」や経団連の積極的な移民政策支持、さらには最近の国籍法改正などは、ややもしますと、日本国の”開城”を意味してしまうかもしれません。

 日本国と諸外国との間の経済交流の活発化が、両者の繁栄に繋がるならば、それは、歓迎すべきことでしょう。しかしながら、経済的な開国と政治的な開国をきちんと区別しませんと、開国とともに国家を失うという愚かしい結果を招いてしまいます。日本開国論には、十分な注意が必要なのではと思うのです。

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