管次期首相の時代遅れの民主主義観
本日の新聞に、次期首相となる管氏の民主主義観について書いた文章が掲載されておりました(日経新聞朝刊)。その記事によりますと、管氏は、民主主義とは、”交換可能な独裁”と考えているようなのです。
18世紀の政治思想家であるルソーは、『社会契約論』という書物の中で、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大きなまちがいた。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は、奴隷となり、無に帰してしまう」と述べています。しばしば、この一文は、民主主義の欠点として引用されることがあるのですが、管氏は、21世紀という時代に至っても、民主主義の制度とは、選挙で選ばれた限り、独裁を敷いてもよいと制度と思いこんでいるようなのです(因みに、民主党の代表は、国民が選んだわけでもない・・・)。
18世紀に既に指摘されている欠点をそのまま認めているとしますと、管氏は、現代の政治家としては、時代遅れです。むしろ、選挙後の立法活動や政策運営にあっても、なるべく多くの国民の声に耳を傾け、法律や政策に反映させる方向にむかって努力してこそ、時代に合った政治家と言えるのではないでしょうか。
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18世紀の政治思想家であるルソーは、『社会契約論』という書物の中で、「イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大きなまちがいた。彼らが自由なのは、議員を選挙する間だけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人民は、奴隷となり、無に帰してしまう」と述べています。しばしば、この一文は、民主主義の欠点として引用されることがあるのですが、管氏は、21世紀という時代に至っても、民主主義の制度とは、選挙で選ばれた限り、独裁を敷いてもよいと制度と思いこんでいるようなのです(因みに、民主党の代表は、国民が選んだわけでもない・・・)。
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