時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「対馬への修学旅行奨励のお願い」の草稿

 本日より、ブログを再開いたしました。本年も、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 本年の最初の記事は、昨年末に提案いたしました、対馬への修学旅行についての意見書の草稿といたしました。拡散を希望しておりますが、この文面ではいかがでしょうか。ご意見や修正点等がございましたならば、コメントにてお知らせくださいましたならば幸いです。

「明治時代より、我が国では、学校教育の一環として修学旅行が実施されてまいりました。近年では、「平和教育」の名のもとで、中国や韓国を訪問する学校もあり、近現代史に縁のある博物館や史跡をめぐるスケジュールが組まれているそうです。

 しかし、両国は、長年にわたり反日教育を実施しており、修学旅行が、捏造や誇張の混じる自国中心の「歴史認識」を日本人生徒に植え付けるための、対日洗脳プログラムへの参加となる怖れがあります。両国における治安や衛生問題に加え、領土をめぐる緊張が高まる折、こうした懸念を考慮しますと、中国や韓国は、修学旅行先として適切とは思えません。

 この点、交通の要衝でもあった対馬は、貴重な学びの場となります。大陸・半島と一衣帯水にある対馬の歴史は波乱に富み、幾度となく、国家的な危機をくぐり抜けてきたからです。対馬は、『日本書紀』や『古事記』において、国産みの段にその名が見え、最古の遺跡は、縄文時代に遡ります。白村江の戦いの後に建築された金田城、元寇の激戦地跡、朝鮮出兵兵站基地であった清水山城、明治期に対露防衛のために建造された対馬要塞など、激動の歴史を偲ぶ遺跡は枚挙に遑がありません。また、古来、対馬は、新羅からの朝貢使節と日本国からの遣新羅使とが行き交う地であり、室町時代に始まる朝鮮通信使も、対馬を寄港地として京都や江戸に向かっています。中継貿易で栄えた対馬藩は、江戸期には、李氏朝鮮との外交や通商の窓口ともなりました。そして、第二次世界大戦後には、韓国の李承晩大統領による対馬領有要求があり、今日でも韓国の領土的野心は消えてはいません。

 面積は、700平方キロメートルに過ぎませんが、島内の遺跡や史跡、寺社仏閣を一巡するだけで、諸外国との関係の光と影を踏まえつつ、日本国の歴史の歩みを再確認することができます。中国や韓国への修学旅行から学ぶ歴史は、歴史の一面を恣意的に切り取りとり、主観的に脚色したものに過ぎませんが、対馬が包摂する歴史は重層的であり、訪れる者に、歴史を多面的に考える機会を与えてくれます。

 対馬への修学旅行校が増加すれば、疲弊している対馬経済も、韓国からの観光客頼りから脱却することができます。日本国の生徒や学生に対する教育効果、並びに、国境の島である対馬を守るためにも、修学旅行先として、ぜひ、対馬を奨励していただきたく、お願いを申し上げる次第です。」

以上で、1000字弱となりますが、送付先のフォーマットによっては、600字や400字など、字数制限がある場合もあるようです。ご意見のほど、どうぞ、よろしくお願い申し上げます。