時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

聖徳太子は実在した

 はじめまして。古代・中世史研究家の倉西裕子と申します。本ブログ、「時事随想抄」を開設し、政治、経済、外交問題などを中心に、様々なテーマで自らの意見を発信している倉西雅子の姉でございます。姉とは申しましても、双子(一卵性双生児)ですので、とってもよく似ていると言われております。妹からの要請で、火曜日のみ登場させていただくことになりましたので、現代政治ともかかわりのあるようなテーマについて、歴史関連の記事を書かせていただくことにします。どうぞ、よろしくお願い申し上げます。

 さて、今日の日本史の世界は、歴史教育問題も含めて、自虐史観に囚われているとする意見が多く聞かれます。そこで、これを是正することからはじめることにします。本日は、「教科書から聖徳太子が消えてしまうかもしれない」という問題を取り上げてみたいと思います。

 「教科書から聖徳太子が消えてしまうかもしれない」という問題が生じた理由は、「聖徳太子非実在論」という説が唱えられていることに由来しています。すなわち、そもそも聖徳太子という人物はいなかったというものです。では、聖徳太子は本当にいなかったのでしょうか?

 『隋書』には、倭王「多利思比孤」という男性が、自らを「日出ところの天子」と称して、隋の煬帝に使を遣わしたとあります。煬帝はこの書に対して無礼であると怒るのですが(煬帝は「天子」と称せるのは、世界中で中国皇帝だけであると信じていましたので、同じく「天子」と称し、対等外交で臨んできた「多利思比孤」を快く思わなかったのです)、なぜか、答礼使を倭国(日本)に派遣することになります。「聖徳太子」のイメージと言えば、まさに「日出ところの天子」であり、日本人が聖徳太子を崇敬しつづけた理由は、対中自主独立外交を展開した点にあると言えるでしょう。では、倭王「多利思比孤」とは、いったい誰なのでしょうか。この点が聖徳太子非実在論と関わっているようなのです。

 『日本書紀』は、倭王「多利思比孤」について、用明天皇を父に、穴穂部間人皇后を母に持つ厩戸皇子、すなわち聖徳太子であるとしています。従って、倭王「多利思比孤」は聖徳太子であり、聖徳太子は実在していたと言うことができます。しかし、これまで、この点については、当時、天皇位にあったのは女帝の推古天皇であることから、倭王聖徳太子ではないとする見解が示されてきました。しかし、倭王天皇とする等式は、必ずしも成り立たないと想定してみると、7世紀初頭の日本(倭国)の政治状況が見えてきます。

 所謂「倭の五王」比定問題とも関わることなのですが、日本は、「祭祀王」と「執政王」による祭政二重統治の国であり、「倭王」の定義を政治・外交を担う「執政王」とすれば、厩戸皇子が、「倭王」を称して外交を展開しても、決しておかしなことではないのです(「祭祀王」と「執政王」については、拙著『源氏物語が語る古代史:交差する日本書紀源氏物語』(勉誠出版)をご参照ください)。すなわち、「祭祀王」が推古天皇、「執政王」が聖徳太子なのです。四世紀末から五世紀にかけての所謂「倭の五王」の比定論争においても、決着を見ないのは、祭政二重統治であったとする点が見過ごされてきたからなのです。『日本書紀』は、「太子」と「皇太子」を区別しており、特に「太子」という表記には、「執政王」という意味が込められています。「多利思比孤」は、漢字では「太子日子」と表記された可能性があります。このように想定してみると、聖徳太子は、立派に実在しており、まさに「日出ところの天子」となるのです。

 ちなみに、聖徳太子問題については、拙著『聖徳太子法隆寺の謎』(平凡社)、『仏教伝来の源流』(勉誠出版)で扱っておりますので、ぜひ、ご一読くださいませ。また、私も、ブログ『歴史問わず語り』を開設しておりますので、歴史に興味のある方々は、ぜひぜひ、ご覧になってください。

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