時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

日本国統合の想定概念図:2世紀後半の3大国出現(第二段階)までの想定経緯図(

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 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。前回は、日本における国家形成は伊都国からはじまって、紀元前後には、およそ100ヶ国が出現し(第一段階)、さらに三大国に統合されていった(第二段階)という過程が、記紀の「国生み神話と3貴神の出現神話」において表現されていることについてお話いたしました。

 三大国が登場してくる第二段階は、おそらく2世紀後半からで、2世紀末までは、3大国が並立していたと想定されます。3世紀に入ると、「魏志倭人伝」に記録されているように、三大国のうちの「奴国」と「投馬国」が統合して「女王国」を形成し、一方「狗奴国」は「女王国」と対立するという第三段階に入ってゆくわけです(第三段階については、向後扱ってまいります)。

 今日は、この伊都国から三大国への統合(第二段階)までの経緯を、3枚のイラスト図にしてみました(イラスト図1・イラスト図2・イラスト図3)。あくまでも大雑把な概念図ですので、日本列島の形状、三大国の地理的位置関係や範囲などについては、まったく正確ではありません。

 これらのイラスト図を作成するにあたって、およそ100あったとされる第一段階の倭の小国群は、第二段階においても削除せずに残しました。なぜならば、倭の100ヶ国は、三大国に統合されても存続していたと考えられるからです。この小国群存続も、見過ごしてはならない特徴で、日本国の統合過程を解明するための重要な要素です。3世紀後半から6世紀にかけての古墳時代において、全国各地に前方後円墳という同じような形状の古墳が何万規も築造されたことの理由ともなっているのです。

 古代日本が、祭政二元統治と小国群存続に特徴づけられるのならば、幕末の日本の状況には、興味深いものがあります。幕末における統治の基本構造が、朝廷と幕府、そして100あまりの諸藩からなっていたことを考えますと、案外日本の統治形態は、あまり変化がなかったのではないかと想像されてきます。言い換えれば、こうした統治形態には、‘八百万の神々’が集まって国をつくったという日本においては、安定性があったのかもしれません。


(次回に続く)。