時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「奴国」・「投馬国」・「狗奴国」の3大国と「銅矛銅剣文化」・「銅鐸文化」・「銅鏡文化」

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。前回は、伊都国から倭の100ヶ国余が分派し(第一段階)、さらに、その100ヶ国余は、「奴国」・「投馬国」・「狗奴国」の三大国へと統合(第二段階)されていった経緯を、3枚のイラスト図にしてみました(イラスト図1・イラスト図2・イラスト図3参照)。記紀神話の分析から、このような経緯を描くことができるのですが、それを示すような考古学的証拠がなければ、読者の皆様は、なかなか納得されないのではないでしょうか。

 そこで、今日は、弥生時代の祭具には、地域的な特徴があることについてお話させていただきます。考古学的発掘調査の結果は、九州地方の祭具は矛や剣であることを示しています。このため、九州は「銅矛銅剣文化圏」と呼称されています。しかし、九州地方でも、伊都国や奴国のあった糸島半島や福岡湾地域の祭具のみは、鏡であるといった特徴があります。一方、本州の出雲・近畿・東海・北陸地方にかけては銅鐸が祭具となっております。このため出雲・近畿・東海・北陸地方は「銅鐸文化圏」と呼称されております。

 すなわち、弥生時代の祭具は、「銅矛・銅剣」、「鏡」、「銅鐸」の3つに分かれており、三種の神器が、鏡、剣、玉であることと何か関係がありそうです。

 そして、ある時期、「銅鐸文化圏」において、変化が生じます。忽然として銅鐸は地中に埋められ、祭具としての役割を終えるのです。そして、銅鐸にかわって、鏡が祭具となってまいります。祭具の変更の時期とその中心的場所については、時期は2世紀後半で、場所は大和(畿内)となっております。すなわち、「卑弥呼の鏡」とされる三角縁神獣鏡が多量に製造されたことと機を一にするかのように、大和を中心に鏡文化が展開してゆくことになるのです(三角縁神獣鏡は、畿内を中心に全国各地の古墳から500面以上も出土しており、当初鋳造された鏡の数は、これを大きく上回ったと考えられます)。

 弥生時代の祭具が3つであったこと、そして伊都国と奴国の祭具が鏡であって、その伊都国と奴国と密接な関係にあった卑弥呼の墓とされる大市墓が、2世紀後半に大和に築造され、この時期から大和を中心に「鏡文化」が全国に普及したことに、3大国問題や「魏志倭人伝」に記録されている弥生時代終末期の経緯とのつながりが見えてくるのではないでしょうか。


(次回に続く)。

前回の記事は、URLは、http://blogs.yahoo.co.jp/gakumonnoiratume/archive/2013/6/4です。