時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

弥生時代における三大国のひとつ、「奴国」はどのような国であったのか

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。記紀神話、文献資料、ならびに考古学的見地から、弥生時代において、「奴国」、「投馬国」、「狗奴国」の三大国が出現していた可能性が高いことについては既にお話しました。そこで、その3大国が、それぞれどのような国々であったのか、本ブログにおいて、これから数次にわたってお話してまいります。

 まず、「奴国」から、はじめましょう。「奴国」とはどのような国であったのでしょうか。

 記紀神話、ならびに考古学的見地から、「奴国」は、3大国のうちでも、もっとも「伊都国」と近い関係にある国です(「伊都国」は、記紀神話の伊ざなぎ尊と伊ざなみ尊に象徴されています)。このことから、糸島半島にあった「伊都国」から分派し、博多湾沿岸の福岡平野から筑前平野にかけて発展していったのが、「奴国」ではないかと推測できます。すなわち、「伊都国」王家の一王族が分家して、建国したのが「奴国」なのでしょう。

 「伊都国」の所謂‘分家筋’ながらも、「奴国」は、肥沃な福岡・筑前平野における米の生産力を背景に急速に勢力を伸ばし、やがて、九州北部における覇権国に成長していったと考えられます。前にもお話いたしましたように、「奴国」と天照大神は、密接な関係にあります。「奴国」は天照大神に象徴されているとも表現することもできるでしょう。記紀神話は、天照大神は、田の経営・管理、すなわち稲作、「米作り」の手腕に非常に長けていたと記述しています。このような表現には、他国を凌駕していた「奴国」の米穀生産力が表現されているのかもしれません。また、記紀神話は、天照大神は、機織りにも長じていたとありますが、「倭錦」と称されている日本独自の絹織物は、これまでのところ、福岡湾沿岸地域からのみ出土しています。絹織物の生産も、「奴国」の発展を支えたのでしょう。

 『後漢書』によると、建武中元二年(西暦57年)に、光武帝印綬の金印を「奴国」に贈っており、江戸時代に、福岡湾の志賀島から、その「漢委奴国王」銘金印が出土しています。その文字解釈には諸説がありますが、「倭の奴国王」とする説が有力です。金印が後漢朝最高位の印綬であることに、「奴国」が、国際的にも高い評価を受けていた大国であったことが窺えるのではないでしょうか。また、「奴国王」ではなく、「倭の奴国王」という表現が採られていることから、「奴国」は、大国ながらも、当時あった倭諸国のうちの一ヶ国、すなわち、3大国の一ヶ国にすぎなかったことも窺がえるのです。


(次回に続く)。