時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

韓国政府竹島公式サイトの真偽パート7の3-太政官指令は竹島放棄を意味しない

 Q7については、前置きが長くなりましたが、本日は、明治10(1877年)年3月の太政官指令に見られる「竹島鬱陵島)外一島」の記載が、韓国の主張するような日本国政府による現在の竹島放棄を意味しないことについて説明したいと思います。なお、太政官指令とは、明治初期の法制では、布告や布達とは違い、今日の行政命令レベルに当たるそうです。

 第1に、太政官指令が出された1877年は、過去の記事で言及したように、島の位置と名称が混乱していた時期にあります。この時代に作成された地図には、アルゴノート、松島(鬱陵島・ダジュレー)、現竹島の3島を記載しているものもあれば、竹島鬱陵島)と松島(現竹島)を日本領として描いている官許の地図(「大日本国郡全図」)もありました。

 第2に、太政官指令の一件については、『明治十年三月 公文録 内務省之部 一』に纏められていますが、その経緯を辿ってみますと、最初の発端は、1876年10月5日に、地籍編制のために内務省の地理寮が島根県に対して行った照会にあります。問い合わせの対象は、竹島鬱陵島)一島であり、松島(現竹島)は含まれておりません。昨日の記事で取り上げましたが、民間からの開拓願いは、竹島鬱陵島)に対するものでしたので、明治政府の関心は、竹島鬱陵島)の調査にあったのでしょう。

 第3に「竹島外一島」の記載は、島根県から内務省への返答で初めて登場します。この返答に際し、島根県参事は、内務卿大久保利通に対し、竹島鬱陵島)をどのように処置すべきか、逆に指示を仰いでいます。大久保利通がさらに右大臣の岩倉具視に伺いをたて、その返答が、当該太政官指令なのです。この間のやり取りは、皆、”竹島管轄之儀”など、竹島一島で表現されており、松島(現竹島)に対する言及はありません。また、公文録の最後には、元禄期の経緯が説明として付されており、第2で述べたように、竹島鬱陵島)への対処が課題であったことを示しています。

 第4に、島根県からの返答には、竹島鬱陵島)と松島(松島)が描かれた図が添付されていたそうですが、仮に、”外一島”が松島(現竹島)であるならば、”松島”と島名で明記するはずです。この図には、鬱陵島の隣に小さな島(鬱陵島に付属する竹嶼)が無名のまま掲載されていますので、外一島は、竹嶼である可能性が高いのです。

 日本国政府が、松島=鬱陵島であることを確認したのは、軍艦天城による測量が行われた1880年の事です(1876年の日朝修好条規第7款で朝鮮側も測量を承認…)。この測量で、鬱陵島に隣接する島が、竹嶼(Boussle Rock)であることも判明しました。以上のことから、明治10年太政官指令は、鬱陵島を対象としたものであり、竹島の放棄を意味しないと言えるのです。

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