時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

韓国政府竹島公式サイトの真偽パート7の2-太政官指令と混乱する島名

 昨日の記事では、太政官指令が作成された頃、日本と朝鮮半島の間の島々について、名称の混乱があったことを説明しました。それでは、日本国では、当時、この混乱に対して、どのように対応していたのでしょうか。実のところ、この頃、竹島(磯竹島とも…)と呼ばれてきた鬱陵島の所属が不明確であったため、国民の間から、鬱陵島に対する開拓の申し出が相次いだ時期でもありました。

 例えば、明治9年7月に、武藤平学が、明治政府に対して、『松島開拓之議』という建白書を奉っています。この建白書において、武藤は、”ウラジオストックに居住しているアメリカ人商人から、松島は日本領であるから、速やかに開拓すべきと(港湾の建設、鉱山の開発、木材の採取…)”と勧められたと述べています。昨日の記事で指摘したように、シーボルトの影響によって、西欧で出版される地図には、鬱陵島は”松島”と記載されていました。当時の国際社会では、松島(鬱陵島)は日本領と認識されていたのです。

 また、 島根縣士族の戸田敬義という人物は、明治10年1月27日付で、東京府知事楠本正隆宛てに、『竹島渡海之願』を提出しています。この願書で、戸田は、良材や豊富な水産物が取れるとして”竹島”の開拓を願い出ています。幕府は渡航を禁止していたようですが、明治政府は、いかがでしょうか、と。返答が届かないため、戸田は、3月13日付の書面で催促をしていますが、この願書に対して、明治政府は、”竹島”への渡航を許可しませんでした。

 この他にも、斉藤七郎兵衛による松島開島願や武藤一学による松島開島之建白などもあります。何れにしても、島の名称が、”松島”であれ、”竹島”であれ、鬱陵島であって、開拓の対象となっているのは、現在の竹島ではありませんでした。なお、戸田の渡航願いへの不許可の回答を見る限り、”竹島”については、江戸期の表記のままであったためにか、鬱陵島と判断したことが伺えます。(つづく)

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