時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

韓国政府竹島公式サイトの真偽パート7の1-太政官指令と混乱する島名

 本日のQ&Aは、韓国が自国の領有権主張の主要な根拠としている明治10(1877)年の「太政官指令」です。韓国のサイトでは、「お伺いの趣、書面竹島鬱陵島)外一島の件は、本邦と関係無しと心得るべきこと。」とあることから、外一島を現在の竹島と決めつけ、明治政府が、鬱陵島竹島を正式に放棄したと主張しています。竹島問題の議論では、韓国側は、決まって、この太政官指令を持ち出すのですが、果たして、”外一島”は、現在の竹島なのでしょうか。

 Q7の真偽を検証するに先立って、鬱陵島竹島の島名をめぐる混乱について、本日は指摘しておきたいと思います。太政官指令が作成された当時、以下に述べる理由によって、どの島がどの名称であるのか、確認することが困難な状況にありました。

(1)Q1で述べも述べたように、高麗時代の『三国史記』を含め、18世紀後半までに刊行された韓国側の地誌では、何れも、鬱陵島=于山島、あるいは、于山島=竹嶼島(鬱陵島に近接する小島)と捉えています。しかも、「八道総図」では、鬱陵島と于山島は同様の大きさに描かれており、ここに、一島一名なのか、それとも、二島二名なのか、混乱を見ることができます。

 ところが、竹島一件(1696年)以降に至ると、安龍福の証言の影響を受けて、1770年の『東国文献備考』と1808年の『萬機要覧』には、”輿地志では、于山は日本でいう松島:于山則倭所謂松島也”との但し書きが付くようになりました。原典となる輿地志に、于山島=松島の記述がないことは、既に、Q1で指摘しました。ここに、上記の混乱に加えて、日本側の名称(竹島と松島)が加わることになり、韓国側は、混乱を極めたようです。昨日、Q6で、李奎遠が鬱陵島調査に先立って、高宗から質問を受けたと記しましたが、高宗の質問内容とは、「松竹島と芋山島が鬱陵島近辺にあるが…」というものです。ここでは、3つの島の名称を挙げられており、しかも、竹島と松島が合体し、松竹島と表現され、二島一名化されているのです。

(2)こうした混乱に拍車をかけたのが、西欧諸国の測量の誤りです。鬱陵島は、1787年、フランスのLepaute Dageletによって発見され、ダジュレー島と命名されました。ところが、イギリスの探検家、James Colnettが新しい島を発見したとして、船名に因んで”アルゴノート”と名付けましたが、この島もまた、鬱陵島であったのです。両者の測量結果に違いがあったため、以後、この誤りが訂正されるまで、西欧諸国の地図では、鬱陵島が二つの島として描かれることになりました。そして、現在の竹島がフランス船Liancourt号によって発見されるのは、1849年のことなのです。ここに、ダジュレー島、アルゴノート島、リヤンクール島(イギリスではHornet Rocks)の三つの島が登場することになりました。

(3)3つの島が出現したことで、島名の混乱はさらに混迷を深めます。何故ならば、シーボルトが、日本国の地図を作製するに際して(1840年)、日本国の文献を参考としながら、ダジュレー島を”マツシマ”、アルゴノート島を”タカシマ”と名付けたからです。この結果、ダジュレー島=鬱陵島=松島とする、新たな誤解が発生しました。

 鬱陵島、架空のもう一つの鬱陵島竹島(松島)、竹嶼、そして、日韓欧による錯綜する名称…。このように、「太政官指令」が書かれた1877年は、島名の混乱期にあるのですが、それでは、日本国では、この問題、どのように対処されたのでしょうか。明日は、パート7の2として、日本国内の対応を検証したいと思います。

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