時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

公平さを欠いた河野談話-日系米国人による訴訟への期待

 実在が疑われている出来事がある場合、あらゆる角度から検証することが、実在を確定する合理的なアプローチです。すべての角度から照らして矛盾点がなければ、誰もが、それを事実として認定し、史実として受け入れることができるのです。

 河野談話については、内外のあらゆる”慰安婦”関係の資料を調査した結果と説明されております。その資料の中には、当然に、テキサス親父さまが動画で公開したアメリカの公文書館で保存されていた朝鮮人慰安婦に関する調査報告書も収集したでしょうし、朝鮮総督府の元官僚や、日本軍の軍人であった方々の聞き取り調査も実施したはずです。事実を確かめるためには、元慰安婦以外の朝鮮の人々の証言も必要であったことでしょう。もし、説明通りに徹底調査を実施していたとしたら、圧倒的多数の証言や資料が日本軍による強制連行説には否定的であったはずです。ところが、元慰安婦達の証言とは食い違っていたにも拘わらず、元慰安婦証言にのみに信頼性を置いて、河野談話が公表されたことは、まことに不可解な事と言わざるを得ません。複数の証言が相対立する場合、必然的にどちらかが偽証していることになりますが、多数派の証言の方が信憑性が高いとは、考えなかったのでしょうか。

 少なくとも、証言が真っ向から対立する場合、公平で中立的な第三者に判断を求めることは、現代という時代の紛争や対立の基本的な解決方法です。グレンデール市に設置された慰安婦像の撤去を求めて(州による連邦権限の侵害…)、日系米国人の方々が遂に訴訟を起こされたそうですが、多くの日本人は、”慰安婦”の真偽について公平な司法の判断が及ぶことを期待していると思うのです。

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