時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:人類の世界観を激変させる可能性のある地球外生物の有無問題

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。前回5月19日付本ブログにおきまして、地球外生物はいるのかいないのかの問題は、進化には‘行く先’が予めプログラミングされているのか、それとも、ランダムな進化の過程において、偶然、人類という種が出現したのか、という問題と繋がり、前者は、理神論や有神論と繋がり、後者は無神論と繋がると述べました。
 
その際に、仮に、宇宙探査の結果、地球外生物が、宇宙には全く存在していないということが証明されますと、「観念的・宗教的には、天動説が正しいということにもなってくる」と述べましたが、この表現には、多少の語弊があったようですので、今日は、この点について扱います。
 
科学的には、地球は球形であって自転しており、地動説が正しいことは、論を待たないことです。そこで、「天動説が正しい」とする表現を用いた理由はどこにあるのかと言いますと、仮に、将来、生命体が地球のみにあって、特に、人類のみが、思考することによって、すべての‘存在’を認識しえていることが明らかとなりますと、その人類による世界認識、世界観は、天動説が信じられていた時代における人類による宇宙も含めた世界認識、世界観に近い状態となることを意味しているということにあります。
 
すなわち、このような世界認識、世界観は、科学的に、地球は球形であって、地動説が正しいということがはっきりする前の天動説時代における人類の一般的な認識であったのです(ただし、古代ギリシャ文明では、すでに、地球は球形であるとする説はあったようです)。
 
古代・中世の人々は、宇宙を含むすべての世界は、動物とは隔絶した存在である人類と、‘天’にある神や仏のみのために存在し、神や仏は、より人類に、直接的に働きかけてくる存在であると捉えられていた、と言うことができます。このような認識を、将来、再び人類が有する可能性は、地球外生物が、地球以外の宇宙には全く存在していないということが証明された時点で、生じてくるかもしれないのです。すなわち、地球外生物の有無問題は、人類の世界観を激変させる可能性があるのです。
 
このような、意味におきまして、「観念的・宗教的には、天動説が正しいということにもなってくる」と述べたわけですが、この問題は、宗教問題とも深くかかわってくることになるでしょう。地動説や科学の発展によって、神仏の存在がなおざりにされる傾向が生じ、無神論が唱えられることにもなりました。しかしながら、宗教を否定するかのように考えられていた科学の発展が、将来、むしろ、神仏の存在を肯定する可能性も含めまして、宗教問題に、一石を投じる、ということにもなってくるかもしれないのです。

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(続く)