時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:「話せばわかる」が通用しない世界を説明する進化論

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。
「馬の耳に念仏」という諺がありますように、いくら理路整然と論理的に説明しても、相手にわかっていただけない場合があります。説明している本人は、相手が、自分と同等の理解力、モラル、分析力、判断力を有していることを前提としているからこそ、「話せばわかる」ということになるのですが、相手には、それこそ「馬の耳に念仏」という場合があるのです。
 
すなわち、「話せばわかる」が、まったく通用しない世界があるのです。では、なぜ、「話せばわかる」は、通用しないのでしょうか。同じ人類なのだから「話せばわかる」と考えるのは、どうやら間違えであるようです。人類は、その進化の過程におきまして、「野獣型人類 beast human」と「神様志向型人類god(goddess)-minded human」とに枝分かれしてしまっているのです。
 
そして、「野獣型人類 beast humanの反応には、単に、無理解に留まらないという問題があります。「神様志向型人類god (goddess)-minded human」が、「野獣型人類 beast human」を相手に何かを説明し、何らかの対応を求めようといたしますと、そのメンタリティーの違いによりまして、「野獣型人類 beast human」は、「神様志向型人類god(goddess)-minded human」の予測、もしくは、期待する反応とは、まったく異なる反応を示してくることになるのです。
 
その原因は、「野獣型人類 beast human」の思考回路は、動物と同様に狩猟型であり、獲物を捕らえることが人生の目的であるがゆえに、「野獣型人類 beast human」の目には、自らの仲間(群れ)以外の人々の行動は、すべて獲物の行動としか映らないことにあります。
 
したがいまして、「神様志向型人類god(goddess)-minded human」によるどのような善意にもとづく行動も、「野獣型人類 beast human」の目には、それこそ「鴨がねぎを背負ってくる」ようにしか見えていないのです。「神様志向型人類god(goddess)-minded human」が、善意に対応すればするほど、なおさらに、「野獣型人類 beast human」は、獲物を捕らえる好機とばかりに、「神様志向型人類god(goddess)-minded human」の善意を利用しようとすることになるでしょう。もちろん、「野獣型人類 beast human」には、自らの狩猟行為に対する良心の呵責といったものは、微塵も無いはずです。
 
このことをよく理解し、「野獣型人類 beast human」対策を練らねば、「神様志向型人類god(goddess)-minded human」が国民の多くを占める国々は、「野獣型人類 beast human」が国民の多くを占める国々も存在している国際社会におきまして、生き残ってゆくことは困難であると言えるでしょう。ちなみに、述べてまいりましたことも、「野獣型人類 beast human」には、「馬の耳に念仏」であるかもしれません。

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(続く)