時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」との枝分かれの理由の解明は重要

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。昨日と一昨日にわたって、本ブログにて、倉西雅子が、‘神の視点’についての記事を書きましたので、今日は、‘神の視点’と進化論とのかかわりについて、扱いってまいりましょう。
 
人類について語る時、主観的で、個人的な利己心、あるいは、集団的な‘群れ意識’を超越した客観的で公正な判断を可能とさせる能力が、人類のみには備わっているという一般論が、よく主張されます。このような主張を行う人々は、とかく、すべての人類に当てはめてしまい、「だから人類はすばらしい」という人類礼賛論となっているのですが、倉西雅子も心配しておりますように、果たして、この特徴は、すべての人類に備わっているのでしょうか。
 
‘神の視点’は、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」のみに備わっている特徴であって、それゆえに、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」という呼称が相応しい人々であるのです。
 
仮に、このような「神様志向型人類god (goddess)-minded human」によってのみ、人類や世界が構成されておりましたならば、今日の国際社会の抱える問題のほとんどすべては、存在していなかったことでしょう。それこそ、「平和な世界」が構築されていたはずです。

現実は、そうではないことは、むしろ、このような‘神の視点’が欠けている人類が存在していることを明白に示していると言えます。したがいまして、「野獣型人類 beast human」が、進化の過程で発生しているのですから、すべての人類に、‘神の視点’があるということを前提として物事に対処してしまいますと、所謂‘融和’、‘手ぬるい’、‘甘やかし’の政策となり、事態は、むしろ悪化することになります。換言いたしますと、むしろ、問題は、一般論的な人類礼賛論者が、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」の人々を基準とした人類の定義を、「野獣型人類 beast human」にも適応したことによって、「野獣型人類 beast human」も、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と同じように、思考、行動するという錯覚、誤解を人々に与えていることにある、と言うことができるでしょう。一方、逆に、「野獣型人類 beast human」を基準とした人類の定義を、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」にも適応してしまいますと、これもまた、混乱要因となります。
 
人類の枝分かれ現象が、人為的事象への対応をめぐる混乱要因となっていることを踏まえますと、混乱要因をきちんと分析、整理しておくことが必要となってまいります。
 
すなわち、進化とは、基本的に、環境に対応して機能を変化させて別の種となってゆくという現象ですので、ここで、考えねばならないことは、なぜ、どのような環境や条件によって、このような枝分かれが発生したのか、という点なのです。人類が「神様志向型人類god(goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」とに枝分かれした理由について、あらゆる学問分野から分析し、解明してゆくことは、現在、人類にとりまして脅威となっている「野獣型人類 beast human」への正しい対応策を練り、人類の将来を考える上で、極めて有効なアプローチとなると言うことができるのです。次回からは、どのような環境や条件によって、このような枝分かれが発生したのか、という点について、考えてゆくことにしましょう。

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(続く)