時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:スポーツの存在意義に対する認識からわかる「神様志向型人類」と「野獣型人類」の区別

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。本ブログにて、人類が進化の過程で、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」に枝分かれしていることを、再三にわたって述べておりますが、読者の皆様の間には、「枝分かれしたというのならば、その違いはどのようにすれば、分かるのか」といった疑問を持たれておられる方々もおられるのではないでしょうか。前回も述べましたように、「身体的には大差が無いにもかかわらず、メンタリティーには大きな違いがある」のですから、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」を見分けるためには、メンタリティーの違いは、どのようにすれば図ることができるのか、といった点が問題となってくるのです。
 
この点につきましては、少なからず、簡単に、自己診断、もしくは、他者の言動からその他者がいずれであるのかを判断する方法はあります。もっとも分かりやすい方法の一つは、スポーツの存在意義につきまして、以下の2つのうち、どちらの点を重要であると認識しているのか、という質問に対する答えによる判断です。
 
①スポーツはフェアプレー精神を普及するために存在している
②スポーツは勝ち負けがすべてである
 
スポーツをめぐる①と②の価値判断は、些細なようにも見えますが、今後のスポーツのみならず、国際社会の在り方を占う上でも、重要となってくる可能性があります。①を重要であると考えている人々は、オリンピックなどのスポーツ競技会の開会式におきまして、「選手宣誓」があり、必ず、ルールを守り、フェアプレー精神に則ることが宣誓されていることの意義を、よく理解している人々であると言うことができます。
 
なぜ、フェアプレー精神が大事であるのか、と言いますと、人類社会を維持させるためには、ルールを守ることが極めて重要であるからです。その重要性が、スポーツによって、非常によく分かりやすく表現されている、ということになるでしょう。多くの国々が、スポーツ振興に力を入れている理由も、ここにあり、きちんとルールを守ることのできる国民を醸成することが、スポーツ振興の目的であるということになります。そして、①を選んだ人々は、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と認定することができるでしょう。
 
一方、②を選んだ人々は、「野獣型人類 beast human」であるということになります。チンパンジーの群れにおきましては、ボス争いやメス争いが、その‘サル生’のすべてでありますように、「野獣型人類 beast human」は、スポーツは、勝ち負けがすべてであって、ルールを守らず、ズルをしてでも、‘勝てばよい’ということとなってしまうのです。
 
この問題は、昨今、役員や審判買収などの不正問題に揺れるオリンピックやワールドカップにおきまして、観戦者や視聴者を、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」のどちらに想定するのか、といった問題ともかかわってくることになります。獲得メダルの数や色などを重視する姿勢で開催、放映いたしますと、「野獣型人類 beast human」の国々は、審判買収などのいかなる卑怯な手段を用いてでも、メダルを獲得する、ということを目的として設定することになります。

「神様志向型人類god (goddess)-minded human」は、このような不正に満ちたスポーツを観戦、視聴すること自体を不快に感じ、観戦、視聴することを止めてしまうことになるでしょう。
 
一方、「野獣型人類 beast human」は、フェアプレー精神が理解できないはずですので、フェアプレー精神を強調して、開催、放映いたしますと、「つまらない」として、観戦、視聴することを止めてしまうことになるのです。
 
さて、今後のオリンピックやワールドカップにおきましては、どのような姿勢で、運営、放映が行われ、そして、人々は、どのように反応するのでしょうか。この問題は、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」の人口比や国際秩序の問題ともかかわっている問題だけに、興味深いところです。

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(続く)