時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

「進化論」から見えてくる人類共通の脅威:司法制度を歪める'野獣型裁判官'

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。昨今の裁判所による判決などに対しまして、一般常識から、その司法判断に疑念をいだく機会が多くなってきているように感じるのは、私のみではないのではないでしょうか。
 
そもそも裁判とは、行われた行為の善悪が判断され、加害者に対しまして、被害者に代わって公権力が、その罪に応じた制裁を科すためにある制度である、と言うことができます。したがいまして、まずもって、善悪を判断する能力が、重要であることになります。
 
そこで、善悪の判断問題を考えてみますと、『聖書』創世記が想起されてまいります。創世記によりますと、はじめの人類であるアダムとイブは、‘善悪を知る果実the tree of knowledge of good and evil’であるリンゴを食することで、善悪の判断がつくようになります。神様は、’善悪を知る果実’を食したアダムとイブに対しまして、「人類は、我々の一員として、善悪を知るようになったAnd the Load said, Behold, the man is become as one of us, to knowgood and evil」と述べることになるのです。すなわち、人類は、一歩神様に近づいた、ということになるでしょう。
 
すなわち、全人類には、善悪の判断があるということになるのですが、その人類には、「神様志向型人類god (goddess)-minded human」と「野獣型人類 beast human」が併存していることは、本ブログにて再三にわたって述べたとおりであり、神様も「野獣型人類 beast human」が存在していることを心配なさっておられるのです。
 
そして、問題は、「野獣型人類 beast human」も、裁判官になり得るということです。仮に、「野獣型人類 beast human」が裁判官になりましたならば、その’野獣型裁判官’には、そもそも、善悪の判断能力が欠けている、ということになります。その結果、その判決は、「神様志向型人類god(goddess)-minded human」から見ますと、悪を利したり、公正さに欠けた判決となっているのです。
 
司法制度上、司法試験に合格すれば、裁判官になれるわけですが、その試験に、善悪の判断能力を問う出題があるのかは疑問であり、’野獣型裁判官’の登用は防げない現状にある、と言うことができます。
 
現在の世界が抱える問題を考えるにあたり、進化論が重要である理由は、「野獣型人類 beast human」が存在しているという現実を直視した対策を立てることの重要性が認識されてくることにあります。裁判官の採用制度も、こうした現実を踏まえた制度に改革してゆきませんと、きちんとした善悪の判断にもとづいた裁判は行えない、ということになるでしょう。
 
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(続く)