時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

『China 2049』と『吉備大臣入唐絵巻』から見えてくる中国の『兵法三十六計』の脅威(パート9)

今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、昨今、反響を呼んでおります『China 2049』に関連して、『吉備大臣入唐絵巻』から見えてくる中国問題の記事を書かせていただきます。
 
前回、12月18日付本ブログの記事にて、「天無二日 土無二王」という考えは、歴史の教訓として、ヨーロッパでは忌み嫌われている一方で、中国では、「天無二日 土無二王」という考えに対して、その危険性を認識している人は少なく、文化大革命がありましたように、自国の歴史に根差した文化を尊重するといった考えが希薄であり、中国共産党は、もとより文明や文化を破壊するといった行為に対して‘悪い事である’とする意識に欠けている点を指摘させていただきました。
 
文明が破壊されるという現象は、「文明を嫌う人々」の問題が、人類にとりまして深刻な問題であることを示しております。「文明civilization」という用語には、さまざまな解釈があり、単に、‘科学技術の発展’と捉える人々もあれば、‘洗練された芸術や美意識などに根差した文化の保持や拡大’と捉える人々もおります。
 
2つの解釈のどちらの解釈にもとづいても、「文明を嫌う人々」は、危険なのですが、まず、前者の「文明」を‘科学技術の発展’と捉える解釈における「文明を嫌う人々」の問題について、本日は、扱ってまいります。
 
前者の解釈による「文明を嫌う人々」とは、電気、ガス、水道も無いような原始時代のような生活を肯定する人々のことであることになります。このような「文明を嫌う人々」は、周りからは狂気であると認定されていても、本人自身は、なぜ、狂気であるのかを、理解していない可能性を指摘することができます。一般常識として、人々は、電気、ガス、水道の無いような生活を忌み嫌うものなのですが、「文明を嫌う人々」は、電気、ガス、水道の無いような生活でも、平気なようであるからです。
 
電気、ガス、水道などの社会インフラを整備することによって成り立っている近代国家におきましては、国民の内に「文明を嫌う人々」が存在していることの問題や、一般常識人との対立の問題は、個々人の意識や思想の違いとして、すまされている限りにおいて、たいして問題とはならないかもしれません。しかしながら、「文明を嫌う人々」が、国家権力を掌握いたしますと、事態は急変することになるのです。あらゆる政府機関を通して、国民に「文明を嫌う人々」の価値観を強制、強要するようになってくるからです。
 
1960年代から70年代にかけて、中国大陸では、原始生活を奨励して、知識人層を強制排除しようとした中国共産党によって文化大革命が起こされ、カンボジアにおきましても、ポルポト政権によって虐殺と洗脳教育が行われました。このような国家レベルにおける原始化の事例は、まさに、前者の解釈における「文明を嫌う人々」が、国家権力を掌握した場合の恐怖を示す典型例であると、言うことができます。
 
そして、現在でも、「文明を嫌う人々」が国家権力を掌握する恐怖は存在しております。ISによって支配されている地域における惨状は、「文明を嫌う人々」からの脅威に、一般常識人が晒されていることを示しております。このように、表立った運動ではなく、もっと、オブラートに包んだような運動もあるようです。例えば、誰でもが自然環境の保護活動に対しましては、賛意を示すかと思いますが、エコロジー運動の一部には、原始生活へと人々を誘導しようと計画している「文明を嫌う人々」の謀略が潜んでいる可能性もあります。くれぐれも、「文明を嫌う人々」によって騙されないように、注意していなければならない、ということになるでしょう。

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(続く)