時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

日本書紀紀年法の辛酉革命説も政教分離と政教一致の問題とかかわっている

 今日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただき、「2016年」について扱ってまいります。
 
昨日の本ブログにて、「最後の審判の日2061年説」は、西暦800年の政教分離の年代から1,260年を数えた年代を最後の審判の日とみなし、「最後の審判の日2016年説」は、西暦756年の政教一致の年代から1,260年を数えた年代を最後の審判の日であるとみなしており、どちらの説も、政教分離政教一致の問題とかかわっていると述べました。
 
そこで、本日は、『聖書』黙示録において、1,260年を数える起点となる「ある特定の年代」の意味について述べる予定でしたが、その前に、「1と2と6は一回のみ、0は何度使ってもよい法則The Rule of One Time 1, 2 & 6and Any Time 0」が、政教分離政教一致の問題とかかわっている可能性を補う事例をもう一つ紹介しておくことにしましょう。
 
その事例とは、我が国の日本書紀紀年法をめぐる事例です。
 
推古9年の西暦601年から、1,260年を遡った紀元前660年に、日本書紀紀年法皇紀)の紀元となる神武元年が設定されておりますことは、本年1月8日付本ブログにて述べました(紀元前660年+1,260年=西暦601年)。
 
すなわち、平安時代の明法家である三善清行の「革命勘文」によって、60年に一度めぐってくる辛酉の年に、政治的・社会的な変化があり、特に、その60年が21回めぐった辛酉年には、大きな政治的・社会的変化があるとされる辛酉革命説が、『日本書紀』には用いられており、(「60年×21回=1,260年」とする計算式によって表現されえる1,260年に一度の大きな政治的・社会的な変化は、「大変」と称されております)、神武天皇の即位の年であって、かつ、日本書紀紀年法皇紀)の紀元となる紀元前660年は、この辛酉革命説の「大変」にもとづいて、推古9年の西暦601年から1,260年遡った年代に設定されていることが、わかっているのです。
 
では、西暦601年は、どのような年であったのか、と申しますと、万機摂政であった厩戸皇子(聖徳太子)が、斑鳩に摂政宮を開設した年代であり、この年代に、飛鳥の推古天皇が、政治から切り離されていたことになります。すなわち、政教分離が行われた年代となります。

さらに、西暦601年から1,260年を数えて、次の「大変」の年となる西暦1861年は、どのような年であったのか、と申しますと「公武合体」が行われた年代となります(西暦601年+1,260年=西暦1861年)。
 
津田左右吉氏が、「日本の国家形成の過程と皇室の恒久性に関する思想の由来」(1946年)において、「二重政体」として指摘されておられますように、我が国の統治体制は、特に、厩戸皇子(聖徳太子)の時代以降、宗教的権威・権力としての朝廷と、世俗における政治的権力としての幕府とに分ける政教分離を特徴としてきた、と言うことができます。ところが、西暦1861年の「大変」の年に、「公武合体」としてよく知られる政教一致政策が採られたのです。
 
孝明天皇の妹の和宮が、幕府将軍に降嫁するという形で、朝廷と幕府を一体化しようとしたこの政教一致政策は失敗に終わり、また、1861年は、「0」、「1」、「2」、「6」のみで構成される数の年代ではありませんが、西暦601年と西暦1861年に、我が国におきまして何が起こっていたのかを考えますと、政教分離政教一致の問題は、やはり、「1と2と6は一回のみ、0は何度使ってもよい法則The Rule of One Time 1, 2 & 6and Any Time 0」とかかわっている可能性を示す事件である、と言うことができます。
 
述べてまいりましたことから、キリスト教の『聖書』と神道の『日本書紀』には、政教分離政教一致の問題と関連した同じような政治倫理思想が流れている、もしくは、両宗教は、同じような政治倫理思想を起源とする宗教である、という仮説を提起することができるかもしれないのです。
 
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(続く)