時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

ニュートンの時代は宗教をめぐって政治が展開した激動の時代

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただき、「2016年問題」について扱ってまいります。
 
アイザック・ニュートン(1643~1727年)が、『聖書』の研究を行うようになり、政教分離に否定的な見解をもつようになったその個人的理由として、ニュートンが、神の存在を肯定する理神論者であった可能性があることは、前回のブログ(2月16日付)において述べました。加えて、時代背景にもとづく理由も、想定されてまいりますので、今日は、まずは、ニュートンに影響を与えていたはずの16世紀から18世紀にかけての英国の宗教史を概観してみることにしましょう。
 
1534年に、英国王ヘンリーⅧ世は、ローマ・カトリックから離れ、「首長令Act of Supremacy」を発布して、プロテスタント英国国教会を成立させてまいります。このヘンリーⅧ世による宗教改革によって、英国王は、英国国教会の首長も兼ねることになるのです。すなわち、国王が聖俗の両権を掌握するようになり、英国において、政教一致体制が築かれたことになります。
 
チューダー朝のエリザベスⅠ世が没しますと、ジェームズⅠ世が戴冠し、スチュアート朝が開かれますが、カトリックに戻ることは無く、英国国教会のために、ジェームズⅠ世は、ジェームス王欽定の『聖書』を1611年には完成させることになります。
 
その後、17世紀の英国では、カルバン派のピューリタンによって、ピューリタン革命(1642~49年)が起こります。英国は、熱心なピューリタンイギリス国教会)であったオリバー・クロムウェルによって、1660年までの間、政教一致の共和政が敷かれるようになるのです。1643年に出生したニュートンは、多感な子供時代を政教一致の神聖政治のもとに、過ごしていたことになります。
 
さらに、1660年には、王政復古がなりますが、即位したチャールズⅡ世は、カトリック国であるポルトガルの王女と婚姻したこともあり、カトリックに寛容な政策を採るようになります。1678年には、教皇派による陰謀が起こるなど、新旧両派の対立が、ここで、再び表面化してくることになるわけです。ニュートン万有引力の法則を発見した翌年、1688年には、名誉革命によって、メアリー女王とウイリアムⅢ世による共同統治となり、信教自由令が発布され、新旧両派の対立は、沈静化してゆくことになります。
 
述べてまいりましたことから、ニュートンは、宗教をめぐって政治が展開した激動の時代を生きていたことになります。こうした時代背景から仮説として提起することのできる、ニュートンが『聖書』の研究を行った理由について、次回は、扱ってまいります。
 
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(続く)