時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

西暦(キリスト紀年法)はどのようにして成立していたのか

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただき、「2016年問題」について扱ってまいります。
 
 一昨日の本ブログでは、アイザック・ニュートンが、『聖書』の研究を行うようになり、政教分離に否定的な見解をもつようになった理由の解明との関連で、16世紀から18世紀にかけての英国史を辿ってみました。宗教をめぐって政治が展開した激動の時代であったという背景から、ニュートンが『聖書』の研究を行った理由を本日は、仮説として提起させていただく予定でしたが、その前に、せっかく英国史に触れましたので、キリスト紀年法(西暦)の成立とニュートンを輩出した英国との関係について、述べてまいります。
 
「1と2と6は一回のみ、0は何度使ってもよい法則The Rule of One Time 1, 2 & 6and Any Time 0」との関連で、最後の審判の年代の可能性のある「2016年」も、「2061年」も、キリスト紀年法(西暦)によって数えられた年代ですので、キリスト紀年法(西暦)の成立は、「2016年問題」とも密接に結びついているのです。
 
今日、西暦1年を紀元the epoch yearとするキリスト紀年法(西暦)は、世界のほぼすべての国々におきまして、年代を表示する際に、通用する紀年法となっている、と言うことができます。では、人々が無意識に使用しているキリスト紀年法(西暦)は、どのようにして成立したのでしょうか。その成立過程につきまして、知っている人は、案外少ないのではないでしょうか。
 
6世紀までのヨーロッパでは、多種多様な紀年法が使われておりました。紀元前753年を紀元とする「ローマ建国紀年法」、紀元前30年を紀元とする「アレクサンドリア紀年法」、西暦284年を紀元とする「ディオクレティアヌス紀年法」などがあったのです。
 
では、西暦1年を紀元とするキリスト紀年法は、と言いますと、スキティア出身のローマの修道士、ディオニシウス・エクセギウスDionysius Exegiuus (A.D.470-544)が、西暦525年に、年ごとに日付が移動する復活祭の周期を算定するためのイースター表をつくる際に、キリスト降誕と推定される年代、すなわち、西暦1年を紀元として、「ディオニシウス紀年法」をつくったのです。この「ディオニシウス紀年法」が、「キリスト紀年法」と称されるようになるわけですが、その他にも、例えば、イースター表との関連におきましては、ウィクトリウス・アキテーヌVictorius of Aqitaineが、西暦28年を紀元とする「キリスト受難紀年法」をつくっております。
 
したがいまして、いずれの紀年法が、一般的な紀年法となってもおかしくはなかったことになるのです。では、なぜ、「キリスト紀年法」が、普及するようになったのか、と言いますと、ブリタニア(英国)において、西暦664年に開催されたウィトビィ宗教会議において、「ディオニシウス紀年法」が採択されたことが、大きな契機となっております。その後、英国の伝道師によってヨーロッパ大陸に一層、ひろめられることとなり、シャルルマーニュの時代までには、一般的な紀年法となったのです。
 
すなわち、キリスト紀年法(西暦)は、中世英国において成立していた、と言っても過言ではないのです。

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(続く)