中国の「一方的周辺国認識思想」によって生じた「日いずる処の天子」事件
今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。前回の本ブログ(5月31日付)にて、スプラトリー諸島問題などをめぐる中国共産党政権側の「もとは、中国領であった」という主張が、所謂‘妄想’であることにつきまして、第2点として、中国大陸の諸王朝が、「一方的周辺国認識思想」を有しており、外交使節団を派遣してきた外国を、一方的に、「天子の徳を慕ってやってきた野蛮国(蕃国)」として位置付け、冊封国、属国として見なしてきた、という点を指摘させていただきました。本日は、この点につきまして、補足説明をしておきます。
前回は、この「一方的周辺国認識思想」につきましては、英国使節のマカートニーの北京訪問の際に発生した英国の対中感情悪化をその事例として挙げましたが、今回は、我が国の事例について扱います。それは、「日いずる処の天子」事件です。西暦607(推古15)年に、「多利思比(北)孤」という字の倭王が、外交使節団を隋王朝に遣わします。「多利思比(北)孤」とは、『日本書紀』の記述内容から、当時、万機摂政・皇太子の地位にあった厩戸皇子(聖徳太子)のことであると推測されておりますが、その国書の冒頭に「日出る処の天子が、日の没する処の天子に書をいたします」とあったことから、「一方的周辺国認識思想」を持つ隋の煬帝は、激怒することになります。すなわち、この我が国の国書は、倭王も、隋の皇帝も、両者ともに「天子」であるとすることで、日本と隋とが対等であることを明記していたのです。
この事件の顛末はどうなったのか、と言いますと、『隋書』によりますと、憤激した煬帝は、「日本の外交使節団とは二度と会見しない!!!」と息まいてみたものの、なぜか、翌年には、答礼使・裴清が我が国へ派遣されてくることになります(当時、煬帝は、高句麗遠征を計画しておりましたので、恐らくは、高句麗情勢に関連する何らかの目的のため)。来日した裴清は、「一方的周辺国認識思想」のもとに、何かを日本側に命じたようなのですが、その命令は、日本側には受け入れられなかったようです。そもそも、隋朝の命令を受け入れる義務も必要性も、日本側にはなかったのですから。
そこで、裴清は、迎賓館に籠り、使者を日本側に遣わし、「すでに、命令は達しているから、外交政策を改めるように」と再度、要請したようです。しかしながら、日本側は、これに対して、饗宴と贈り物をもって対応しております。そして、『隋書』「倭国伝」の最後の一文は、「此後遂絶」であり、どうやら、国交断絶状態となったようなのです。
「外交使節団を派遣した国=属国」とする認識が、中国大陸の諸王朝による「一方的周辺国認識思想」であることを、この「日いずる処の天子」事件も示している、と言うことができるでしょう。
現在でも、中国大陸には、「一方的周辺国認識思想」があり、中国共産党政権が、諸外国との間に軋轢や紛争を起こす原因、主権平等の原則に反する外交政策を採る原因、そして、国際的非難を受けても、態度を改めない原因は、こうした国際社会には通用しない「一方的周辺国認識思想」にもとづいた奇妙な外交姿勢にもあるのです。
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(続く)