時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

中華人民共和国によってもたらされる「裁判不能non liquet」の脅威

今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。『聖書』「暴露録(黙示録)」のテーマが、神様による審判、すなわち、「最後の審判の日」であることは、今般の中華人民共和国の暴力主義による領土・領海拡張問題に対して、‘悪’の判決を下したのが、常設仲裁裁判所the Permanent Courtof Arbitrationであって、この審判の行く末が、人類の行く末に対しまして、大きな意味を持っていることにおきまして、大変、興味深い、と言うことができます。
 
『聖書』「創世記」によりますと、アダムとイヴが、「善悪の判断を知る木the treeof knowledge of good and evil」の果実を食したことにより、人類は、善悪の判断ができるようになります。すると、唯一絶対神は、「見よ、人は、我々の一員として、善悪を知るようになったBehold, the man is become as one of us, to know good and evil」という言葉を発します。すなわち、唯一絶対神は、そのメンタリティーにおいて、人類は、唯一絶対神に近づいた、と述べているのです。すなわち、二足歩行できる、火を使用できるなどといった点ではなく、神様と同様に、善悪を判断することができるようになった、という点こそが、人類と動物とが隔絶している理由である、としているのです。
 
この善悪の判断能力こそが、まさに、「最後の審判の日」と密接に関連しております。そもそも、裁判とは、‘悪’の認定である、と言うことができます。では、何が‘悪’であるのか、と言いますと、殺人、窃盗など、他者の権利を奪う行為、すなわち、犯罪行為が、「法の一般原則」として‘悪’であることになります。それゆえに、裁判におきまして、殺人や窃盗を行った者は、「有罪」の判決を受けるわけです。
 
しかしながら、仮に、殺人や窃盗を‘悪’であるとは感じない人々によって、社会が構成されてしまいますと、どうなるでしょうか。裁判官は、何が‘悪’であるのか、すなわち、善悪の判断ができないこととなり、もはや、裁判という制度自体が意味を失うことになります。こうした状態は、政治・法学的用語では、「裁判不能non liquet」と称されているそうですが、裁判問題は、善悪の判断能力の問題と直結しているのです。
 
翻って、今般の常設仲裁裁判所の判決は、今日の世界におきまして、多くの人々が当判決に支持を表明しておりますように、「法の一般原則」からして‘悪’と認識される中華人民共和国の行為に対しまして、仲裁官が、厳正に、かつ、フェアに、‘悪’と認定したわけですので、「裁判不能non liquet」状態は避けられたことになるのですが、問題は、自国に不利な判決には従わないという中華人民共和国の行動によっても、「裁判不能non liquet」状態をもたらされ、人類の裁判制度が根底から揺るがされてしまうことです。
 
「法の一般原則」からして‘悪’と認識される行為に対しまして、中華人民共和国のように、‘悪’と認識しない人々の増加は、『聖書』「暴露録(黙示録)」におきまして、神様が、人類の行く末を心配した理由でもあるようなのです。今般、中華人民共和国政府に対しまして、国民からの抗議行動があったそうです。抗議行動があったという報道に接した際に、私は、一般的、常識的に考えて、仲裁裁判に従わない政府に対する抗議行動であろうと推測し、共産党支配下の中国大陸の方々のなかにも、まだ善悪の判断能力のある人々がおられたのか、と感心したのですが、それがそうではありませんでした。「このような中華人民共和国に不利な判決を出させた政府が悪い」という趣旨の抗議であったというのですから驚き、あきれるばかりです。すなわち、抗議行動に参加した人々は、自国の暴力主義による領土・領海の拡張に対しまして、何ら‘悪’であるとは、感じておらず、むしろ、政府の暴力主義に期待しているようなのです。
 
果たして、このようなメンタリティーの人々が、世界中に増加いたしますと、どうなることになるのでしょうか。「裁判不能non liquet」状態がもたらされ、もはや、神様による審判しか期待できなくなる、ということになるのでしょうか。

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(続く)