時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

昔からあった天皇の地位をめぐる2つの相反する思想(12月4日)

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。昨日、戦前の日本におきまして、皇道派というカルト的な政治・軍事グループがあり、この皇道派の思想は、今般の譲位問題にもかかわってくる点を指摘させていただきました。戦前におきましては、天皇の位置づけを、国家=天皇=国体と捉える皇道派的な思想と、天皇は、国民に向けて国家意思(政治的決定)や政策を伝えるための機関であると捉える思想とが並行しており、皇道派が影響力を持っていたのです。
 
 このように、天皇をめぐり2つの思想が、発生した原因の一つとして、記紀神話を挙げることができます。
 
日本人が、天皇を崇敬してきた理由は、記紀神話が、皇祖神・天照大神がじょうずに国家運営していた高天原に侵入(間接侵略)して破壊行動を起こす天照大神の弟神、スサノオノミコトを、八百万の神々が、一致団結して追放するというストーリー展開であったからである、と言うことができます。記紀神話において皇祖神・天照大神の‘護国・国家繁栄の神’、有能な神様としての位置づけが、天皇を支えていた、と言うことができるでしょう。『日本書紀』や『古事記』に収まる記紀神話は、国家運営の良し悪しの問題を政治倫理的に扱った世界でも類を見ない神話なのです。
 
そして、このような記紀神話は、皇祖神・天照大神の子孫たる天皇は、政治的権力を行使することによって、高天原のような理想の国家を実現させしめるべきであるとする考えと、あくまでも、このようなありがたい神様の子孫は、権謀術策に満ちた現実の穢い政治の世界にかかわるべきではなく、国家祭祀を担い、御簾の中でその神威を発揮しているだけで十分であるとする考えとをもたらした、と言うことができます。
 
 明治以降、日本国の近代国家化がなされますと、前者の考えが、皇道派のような思想と結びつき、後者の考えが、天皇は国民に向けて国家意思(政治的決定)や政策を伝えるための機関であると捉える思想と結びついた、ということになります。
 
 では、皇道派の考えは、日本古来の伝統に従っていたのか、と言いますと、そうではなかったようです。その理由は、古代にも、天皇の定義をめぐり2つの思想が生じるという混乱があったのですが、7世紀の後半頃からは、後者の思想、すなわち、天皇の役割は神祇祭祀に特化させるべきであるとする考えが採用され、これが、日本国の伝統となったからです。
 
戦後直後、津田左右吉は、「日本の国家形成の過程と皇室の恒久性に関する思想の由来」(1946年1月)という論文を著し、日本国の統治機構は、二重政体組織であり、天皇は政治に関わらないことをもって伝統としてきた点を指摘されております。『日本国憲法』における天皇の位置づけを歴史学の立場から支持した、とも言えるでしょう。
 
では、なぜ、皇道派のような考えは、間違っているのか、すなわち、日本の伝統ではなく、採用されなかったのか、それは、皇道派のような考えには重大な欠点があることが、認識されていたからであり、次回は、この点を扱ってまいります。

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(続く)