時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

譲位問題に見える皇道派復活の脅威

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。昨日、『日本国憲法』は‘天皇機関説’を立法化している点を指摘させていただきました。今日は、‘天皇機関説’を批判した皇道派について、考えてみましょう。
 
 『大日本帝国憲法』では、天皇統治権を総攬すと定めていましたが、当時、現実には、国家意思や国策の決定は国務大臣をはじめとした政治家によってなされており、天皇は、国民に向けてそれを発布する手続き上の機関に過ぎませんでした。’天皇機関説’は、実態と形式とを一致させた説であり、当時の政治の現実を説明したと言えます。そして、戦後の『日本国憲法』は、統治機構においては‘天皇機関説’に近い形で天皇の地位を形式化し、しかも、統治権の行使を否定して象徴の地位を与えたのです(かくして、今日の”天皇”には、国事行為を行う立憲君主的役割、統合の象徴的役割、そして、歴史的国家祭司の長の役割という三面性を兼ねるようになった…)。

 それでは、天皇機関説を批判した皇道派の考えとは、どのようなものであったのでしょうか。皇道派とは、戦前におきまして旧陸軍内部にその中枢があり、天皇親政による国家建設・改造を計画していたグループのことです。『皇道派は、天皇こそ日本国そのものであると見なし、日本国=天皇=国体とする国家観を信奉していました。

 こうした国家観の下で、『大日本帝国憲法』の条文の解釈を厳格化し、天皇親政の国家に改造することを目指したのです。言い換えますと、天皇機関説とは逆の方向で、実態と形式を一致させようとしたわけです。

 ところが、皇道派は超保守主義者(ウルトラナショナリズム)とも見なされながら、興味深いことに、これほどまで天皇を無誤謬の存在とし、極端なまでに絶対視する思想は、建国以来の日本の歴史には存在していません。昭和初期に突如として出現したカルト的な思想であり、その起源は、実のところ、謎に満ちているのです。むしろ、北朝鮮主体思想を想起させます。とは言うものの、戦前にあってはかなりの影響力があり、美濃部達吉氏が不敬罪に問われたのも、皇道派の反感を買ったからとされています。
 
 さて、このような皇道派の主張は、戦後におきましては、民主主義にもとづく国民主権の定着とともに、影を潜めていたようなのですが、今般の譲位問題におきまして、皇道派問題が、再び、姿を現しているような気がいたします。その理由は、政府の有識者会議のみならず、ネット上などでも、天皇の発言には、盲目的に従うべきであるとする主張も聞かれるからです。しかも、”天皇の意思”が漏れ伝えられており、この問題は、看過できなくなっております。
 
 まさに、皇道派の再来とも言えるのですが、このような主張は、国民主権を否定することになることは、言うまでもありません。譲位問題は、皇道派というカルト的な思想の復活という奇妙な問題をももたらしているのです。果たして、現在の日本国民は、”天皇の意思”への絶対服従を求める考え方に、賛同するのでしょうか。私には、NOのように思えるのです。

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(続く)