時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

”多様性”は危険思想をも受容する

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。‘ネオ・ユダヤ人’たちを中心としてイエズス会イスラム世界やアジアとも繋がる「国際ゲットー連盟」、すなわち、人類の家畜化を狙うおいう意味において”世界悪党連盟”とも称すべき世界支配志向勢力は、昨今、”社会の多様性の受容”、あるいは、”多文化共生”という用語の悪用を思いついたようです。
 
1月13日付本ブログにて述べましたように、‘多文化共生’という名のもとで、移民側の文化を受け入れますと、現実には、‘先祖伝来のもとからの国民の文明的・文化的空間’が徐々に侵食されることから、‘多文化共生’という思想は、寛容主義に見せかけた、侵略思想であることを指摘いたしました。すなわち、その空間が如何なる文明や文化に属するのか、という国家の空間の所属の問題はゼロサムですので、後から移民してきた側の文化にも対等性を認める”多文化共生”は、移民側にとって極めて有利な思想なのです。
 
さらに、‘多様性の受容’と言った場合、思想面を見ると、”安全な思想”と”危険な思想”があるという現実も重視しなくてはなりません。ヘロドトスの『歴史』によりますと、交易の民であるフェニキア人は、訪問先の人々が、‘人食い人種’であることを非常に心配したそうです。‘人食い人種’とまではゆかなくとも、今日の国際法秩序、個々人の諸権利が保障された社会の実現の観点から、‘危険な思想’、‘暴力容認文化’と認定せざるを得ない人々も、世界には存在していることも事実です。殺人を容認するような‘危険思想’の宗教団体などをカルト指定する国々もありますように、異教徒のジェノサイドを容認するイスラム教も、この観点から’危険思想’に属すると考えることができます。
 
 従いまして、‘多文化共生’という名のもとで、’危険思想’を持った移民をも受け入れ、その’危険思想’を尊重すべきということなりますと、治安の悪化、もしくは、国民の善悪の判断能力の低下は免れません。欧米において多発するテロの源泉がイスラム教の暴力主義の教えに起因していることは、’危険思想’を持った人々の増加が、いかに、‘人々が安全・自由に暮らし、国民個々人の人格や基本的な諸権利が等しく保障された世界’という人類普遍の‘理想の世界’の構築に対して、その阻害要因となっているのかを示している、と言えるでしょう。
 
世界支配志向勢力の支配下にあるマスコミは、安全か危険かの判断を避け、‘社会の多様性の受容’や‘多文化共生’が、あたかも’正しい説’、’正しい意見’であるかのように嘯いておりますが、これらの言葉は、人々を欺くための言葉となっているのではないでしょうか。

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(続く)