時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

変わるべきはイスラム教では?

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。1月31日付本ブログにて、文化にも良し悪しがあることを指摘いたしましたが、この問題は、イスラムという宗教そのものの見直しを迫っております。


 考えてもみますと、現在、世界のいかなる国々も、殺人を容認するイスラム教をカルト指定していないことは不可思議でもあります。おそらく、石油産出国はイスラム諸国が多数を占めるため、特に、石油を輸入に依存している国々としては、禁輸措置などを怖れ、イスラム教に対して‘甘い’対応を採らざるを得なかったのでしょう。否、”多様性”という便利な言葉でその危険性を糊塗してきたとも言えます。

 
エネルギー資源については、今日、シェールガス、産出国・産出地の拡散、先端技術による発電方法の開発…などの変化が見らます。その一方で、イスラム過激派組織の暴力主義は看過できないレベルに達しているにも拘わらず、シリア難民問題に象徴されるように、イスラム教徒の非イスラム国への移住者は逆に増加しているのです。イスラム・リスクの拡散が進む現状を踏えますと、国際社会においてイスラム教問題を、教義に踏み込んで考える場を設ける必要があります。
 
宗教的教義の是非については、キリスト教では、ニケーア宗教会議などの宗教会議Synodが開かれ、異端問題として教義の妥当性が議論されており、近世の宗教改革でも、カトリックの教義に対して疑問が呈されました。また、禅宗などの仏教においても、宗問があって、質疑応答によってやはり教義の妥当性が計られています。教義が、果たして正しい教義であるのか、議論され、修正も加えられてきたのです。それでは、イスラム教はどうでしょうか。イスラム教の宗派の違いは、教義の違いというよりも、マホメットの継承者の正統性争いの面が強く、教義そのものに踏み込んだ議論には消極的なように見受けられます。

今日、イスラム教側こそ反省し、人道、並びに、国際法に反する教義を見直す必要があるのではないでしょうか。変わるべきは、イスラム教なのです。そしてそれは、イスラム教徒が人類に対して果たすべき責任ではないかと思うのです。

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(続く)