ネオ・ユダヤ組織の大津事件関与を示唆する有栖川宮威仁親王と英国王室との関係
本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。昨日、大津事件の背景には、英王室と近い関係にあるネオ・ユダヤ組織の問題がある可能性を指摘いたしましたが、この点につきましては、ニコライ皇太子の来日の際の接遇の責任者であった有栖川宮威仁親王の経歴が、注目されてきます。
1879年(明治12年)、有栖川宮威仁親王は太政官より、イギリス海軍シナ海艦隊旗艦・「アイアン・デューク(Iron Duke)」への乗組みを命ぜられ、約1年間にわたり艦上作業に従事します。帰国後の1880年(明治13年)、少尉に任ぜられたのを皮切りに12月1日に英国留学を命じられ、イギリスのグリニッジ海軍大学校に留学、3年半後の1883年(明治16年)6月に漸く帰国しております。このように、有栖川宮威仁親王は、英国、特に英国王室と接点のある人物なのです。
しかし、大津事件が発生しても、警備の責任者でもあるはずの有栖川宮威仁親王は、何ゆえにか、ニコライ皇太子を助けようとせず、ようやく犯人の津田三蔵を取り押さえたのは、同行していたギリシャの王子と人力車の人夫であったそうです。この時の親王の行動は、どこか不可解であり、以下の点を踏まえますと、国際謀略であった可能性も浮かんできます。
2)第一次世界大戦の原因も皇太子暗殺事件であり、狙撃犯のプリンツィプをめぐって、「ナチス・ドイツは、プリンツィプがフリーメイソンリーの会員であり、サラエヴォ事件はユダヤ人の指図を受けたフリーメイソンリーの陰謀とする説を流布した。現在でも陰謀論としてフリーメイソンリー関与説が存在する。
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(続く)