時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

李氏朝鮮とモンゴルとの密接な関係

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。今日は、李氏朝鮮とモンゴルとの密接な関連について概観しておくことにしましょう。
 
李氏朝鮮を開いた李 成桂(り せいけい、在位:1392-98年)は、元(モンゴル)の武官であった人物です。1351年に紅巾の乱が発生し元朝が衰えますと、1357年からは高麗の武官(千人隊長)となり、1392年に高麗王位を簒奪して高麗王を称したのです。
 
宗主国であった明より、王朝が交代したとして国号を変更するよう命じられることになりますと、李成桂は、国号案として「朝鮮」と「和寧」の二つの候補を準備し、明の洪武帝に選んでもらうことになります。「和寧」は李成桂の出身地の名であるとされておりますが、元の本拠地カラコルムの別名でもありました(このため、洪武帝は、むかし前漢武帝にほろぼされた王朝(衛氏朝鮮)の名前であり、平壌付近の古名である「朝鮮」を選んだといいます)。
 
そもそも、李成桂の素性につきましては、数代前より元朝に仕えていたことだけは、はっきりしているようなのですが、出自不明とされております。李成桂は、カラコルムを故地であると主張していることからは、あるいは、モンゴル人であったのかもしれません(李成桂の父の李子春は吾魯思不花というモンゴル名を持ち、さらに、祖父李椿は孛顔帖木児、李子春の同母兄李子興は塔思不花、李子春の兄弟は完者不花、那海など李氏一族は皆モンゴル名を持っている)。仮に、モンゴル人ではなくとも、モンゴル人や元朝を極めて意識していた人物であると言えそうです。モンゴル人であれ、あるいは、女真人であれ、朝鮮族出身ではなく、李朝は、異民族王朝であったようです。
 
いずれにいたしましても、モンゴルとの密接な関係は、李氏朝鮮の性格を表していると言うことができます。悪逆非道を尽くした征服事業で知られるモンゴル流の専制支配が、李氏朝鮮におきまして継承されたと推測することができるのです。

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(続く)