時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

ザビエル派の「裏イエズス会」と反ザビエル派との対立

 本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。フランシスコ・カブラルとヴァリニャーノやオルガンティノとの対立につきまして、今日も扱ってまいります。
 
カブラルは、1570年(永禄13年)6月に天草志岐に到着しています。オルガンティノも同行していましたが、その前年に、手違いからイエズス会インド管区長代理の権限がカブラルとオルガンティノに重複してしまっており、これが原因で両者は既に諍いを起こしていました。この重複問題からも、イエズス会内には亀裂があったことが示唆されてきますが、両者の日本や日本人に対する評価や布教方針が180度違っており、結局、カブラルがヴァリニャーノによって解任、追放されたことは、昨日指摘いたしました。
 
カブラルの経歴や日本での足跡を辿ってみますと、ザビエルとの接点が見えてまいります。第一に、カブラルは、インドで軍人として活動しておりますが、5月3日付本ブログにて述べましたように、インドのゴアのボン・ジーザス聖堂The Basilica of Bom Jesusにはザビエルの右腕下膊が安置されており、インドもまたザビエルがその組織づくりに力を入れていた地域です。そもそも、当時の軍人は、私拿捕船、すなわち、海賊的な側面があり、カブラルは、武器密輸や掠奪などの犯罪行為に対して寛容な考えを持っていたと推測することができます。
 
第二は、573年(天正元年)に、カブラルが山口を訪問していることです。山口はトーレス1556年(弘治2年)に訪れてから誰も宣教師が訪れていなかった地域であったのですが、カブラルは信徒の大歓迎を受けております。このことは、ザビエルが山口につくった強固な「裏イエズス会」とも称すべき国際組織は、宣教師たちが山口を去っても機能していたことを示しております。
 
第三に、その後、カブラルは、九州に戻って大友宗麟に洗礼を授けますが、宗麟にザビエルへの追憶として「フランシスコ」の洗礼名を選ばせています。
 
これらの点は、カブラルが、ザビエル派であり「裏イエズス会」と近い関係にあったことを示していると言えるでしょう。
 
そして、カブラルと鋭く対立したヴァリニャーノには、反ザビエル派であるという特徴があるようです。イタリアのキエーティで名門貴族の家に生まれたヴァリニャーノは、パドヴァ大学で神学を学ぶと1566年にイエズス会に入会します。入会後に哲学を深めるため、ローマ学院で学び、この時の学友が、後のイエズス会総長クラウディオ・アクアヴィーヴァ (Claudio Acquaviva1581-1615) です。5月24日付本ブログにて述べましたように、クラウディオ・アクアヴィーヴァこそ、その死から50年後にザビエルの墓を暴き、恐らくは窃盗の刑罰として、右腕を切断したイエズス会総長なのです。

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(続く)