時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

フランシスコ派のイエズス会士は退化・動物主義者

 今日は、古代・中世史研究家の倉西裕子が記事を書かせていただきます。2016年1月15日付の本ブログにて、『聖書』の載るアダムとイブの「エデンの東の園a garden eastward in Eden」からの出立伝説は、‘類人猿から人類の進化evolution from anthropoid ape to human’ではなく、‘人類から神様への進化evolution from human to god’の第一歩を意味している、と解釈すべきとする説を提起させていただきました。記憶しておられない読者の方々もおられるかと思いますので、その要約を載せますと以下のようになります。
 
『聖書』「創世記」では、はじめの人類であるアダムとイブは、「エデンの東の園a garden eastward in Eden」という場所に住んでおります。そこで、アダムとイブは、お洋服も着ておらず、何も思考せず、何の努力もせず、そこにある木々の果物などを食することで安逸に暮らしております。そこへ、ヘビが現れ、神様が、唯一、食することを禁じている‘善悪を知る木の果実the tree of knowledge of good and evil’を食することを勧めます。この果実を食したアダムとイブは、善悪の判断がつくようになるとともに、「エデンの東の園」から出立することになり、自らの糧を、自らの努力と苦労によって得なければならなくなるのです。この伝説をめぐりまして、「エデンの東の園」は、あたかも、人類にとっての理想の世界であったかのような解釈も生じております。
 
しかしながら、‘生き甲斐’と言えるような自らの人生の意義や意味、さらには、人生における目的やよろこびを考えてみますと、私たちの多くにとりまして、「エデンの東の園は、理想どころか、‘地獄’であるのではないでしょうか(アダムとイブは、善悪を知る木の果実」を食するまでは、盲目でもあります)。
 
エデンの東の園」には、苦労して勉強して知識を得るよろこびも、何かをつくったり、発見する楽しみも、音楽を聞いたり奏でたりする楽しみも、ファッションの楽しみも、読書や思索する楽しみも、そして、働くことのよろこびも何もないのです。仮に、人類の行き着く先の理想として、「エデンの東の園」を設定してしまいますと、原始時代や動物状態に戻ること、すなわち、‘退化degeneration’が理想となってしまうのです。
 
このように考えますと、『聖書』が、「エデンの東の園」からのアダムとイブの出立というお話を載せている意味や意義がわかります。『聖書』「創世記」を読んでみますと、神様は、さっそく、自ら、お洋服をつくって、アダムとイブに着せております。そして、「人類は、我々の一員として、善悪を知るようになったAnd the Load said, Behold, the man is become as one of us, to knowgood and evil」と述べ、勤勉、勤労であることを義務付けてもいるのです。
 
このような記述から、そもそも神様自身は、お洋服を着ており、善悪を判断する能力があり、さらに7日で世界を造ったように、勤勉、勤労であることがわかります。アダムとイブは、‘善悪を知る木の果実the tree of knowledge of good and evil’を食することで、神様に一歩近づいたとも言うことができるのです。換言いたしますと、神様は、最初は、人類が神様のような存在とはならず、‘野獣’のようなままでよいと考えていたようなのですが、アダムとイブが‘善悪を知る木の果実the tree of knowledge of good and evil’を食すに及び、人類に、一つの‘試みchallenge’を与えていることになるのです。
 
すなわち、‘この世に、神々の世界のような世界を実現する’という実現するのが可能であるのか、不可能であるのか、神様でもわからないような課題を人類に与えていると理解することができるのです。そして、この課題に向かって人類が努力すれば、人類は、勉強して知識を得るよろこび、何かをつくったり、発見する楽しみ、音楽を聞いたり奏でたりする楽しみ、ファッションの楽しみ、読書や思索する楽しみ、そして、働くことのよろこびを得ることができる世界を築くことができるのです。すなわち、神様の世界のような‘理想の世界’を地球上に築くことができるのです。
 
このように考えますと、アダムとイブの伝説は、‘類人猿から人類の進化evolution from anthropoid ape to human’を意味しているのではなく、‘人類から神様への進化evolution from human to god’の第一歩、を意味していることになるでしょう。
 
しかしながら、アダムとイブの伝説をめぐっては、‘類人猿から人類の進化evolution from anthropoid ape to human’を意味しているとする誤解釈の方を好む人々も多くあるようです。その結果、今日でも、カルト宗教家、社会・共産主義者無神論者などによりまして、しばしば、‘原始時代の人類は幸せだった’とする説が唱えられるようになってもおります。
 
 この誤解釈は、カトリックの総本山であるサンピエトロ寺院のシスティナ大聖堂の祭壇壁画の『最後の審判』によって、助長されてしまっているのかもしれません。ミケランジェロによって描かれた壁画の人物たちは、完成当初は、すべて裸体であり、再降臨してくるイエス・キリストの姿も、当初は、裸体であったそうです。『聖書』「暴露録(黙示録)The Revelation」では、人類は、遠い未来に、悲劇的で悲惨な状況に陥ると預言されているのですが、その救い主として再降臨してくるキリストが、裸体であったというのでは、あたかも人類の行く末となる最後の審判後の‘千年王国’、理想の世界は、「エデンの東の園」であるかのような誤解を人々にもたらすことにもなります。
 
 さすがに、壁画は、公序良俗に反するということで非難を浴びて、多くの人物像が、お洋服を着するように描き足されるわけですが、ミケランジェロが、何を意図して、このような壁画を描いたのかは、面白い研究課題である点を本ブログにて提起いたしました。そこで、①ミケランジェロイエズス会士であった点、②イエズス会にはフランシスコ修道会派があった点、③フランシスコ会は、「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いて、無所有と清貧を主張している、という3点を考えあわせますと、ミケランジェロの意図が見えてまいります。フランシスコ派のイエズス会士であったミケランジェロは、「エデンの東の園」を人類の理想と捉える誤解釈の方に従って壁画を描いたのではないか、と推測することができるのです。すなわち、ミケランジェロは、退化・動物化することを人類の理想であると考えてしまっていたのです。

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(続く)