時事随想抄

歴史家の視点から国際情勢・時事問題などについて語るブログ

ローマ法王の「フランシスコ」は不吉な名前か

本日も、古代・中世史研究家の倉西裕子が、記事を書かせていただきます。イエズス会が2派に分かれており、このうちのヴァリニャーノ派が文明主義者であるのならば、ザビエル、カブラル、大友宗麟は、非文明主義・植民地支配主義者であり、「裏イエズス会」とも称すべき国際組織をつくっていると言えそうです。そして、ザビエル、カブラル、大友宗麟には、「フランシスコ」という名前を持っているという特徴があります。そして、この名は、アッシジのフランチェスコ(伊:Francesco d'Assisiラテン語FranciscusAssisiensis1182 75 - 1226103日)に因んでいると考えることができます。
 
アッシジのフランチェスコとは、フランシスコ会フランチェスコ会)の創設者として知られるカトリック修道士であり、「裸のキリストに裸でしたがう」ことを求め、悔悛と「神の国」を説いて、フランシスコ会という修道会をつくっております。フランシスコ会の修道士は、無所有と清貧を主張し、染色を施さない修道服をまとっているそうです。カブラルの清貧主義につきましては、昨日述べたとおりであり、ザビエル、カブラル、大友宗麟の非文明主義は、むしろフランシスコ会に近いと言うことができるのです。

イエズス会フランシスコ会は、事実、対立関係にあったそうであり、ザビエル、カブラル、大友宗麟は、イエズス会内の親フランシスコ派であり、このことから、当時、イエズス会の主流派であったヴァリニャーノ派と対立したのでしょう。このことは、以下の点からも補われます。
 
ヴァリニャーノは、天正10年(1582年)に天正遣欧少年使節をローマに派遣しており、その主席正使の伊東マンショは、一般的に、「大友宗麟の名代」として知られています。ところが、この件を、宗麟本人は関知していなかったようなのです。ローマ教皇などに宛てられた宗麟の書状の花押が、古い時代(1564 - 1572年ごろ)に使用されていたものであったり、署名は、当時の宗麟が洗礼名(フランシスコ)を漢音で表した「普蘭師司怙」や、それを略した「府蘭」ではなく、他の書状には見られない「不龍獅子虎」であったり、彼らが携帯していた大友宗麟の書状は偽作である可能性が高く、実際には宗麟は少年団派遣を関知していなかったと推測されるそうです。
 
日本人・日本国が文明人・文明国であることを世界に知らしめようと、ヴァリニャーノは、天正遣欧少年使節の派遣を企画したわけですので、恐らく、この企画に対して非文明主義者の大友宗麟の協力を得ることはできないと考え、偽作の書状をつくって、伊東マンショ主席正使となして、なんとかローマに送り出したのでしょう。
 
フランシスコ会の無所有と清貧主義は、昨日指摘いたしましたように、人類の非文明化、動物化、奴隷化に繋がってしまう危険な思想です。このように考えますと、「フランシスコ」という名前は、不吉な名前であるのかもしれません。現ローマ法王・フランシスコⅠ世は、歴代法王のなかで、初めて「フランシスコ」を名乗ったイエズス会出身の法王です。
 
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(続く)